木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間とは誰?意味とゆかりの地を解説

織田信長に仕えた4人の家臣の評価に次のようなものがあります。

『木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間』

(もめんとうきち こめごろうざ かかれしばたに のきさくま)

これは江戸時代の翁草(おきなぐさ)に収録された羽柴秀吉(後の太閤・豊臣秀吉)、丹羽長秀、柴田勝家、佐久間信盛の評価です。

【Q】翁草(おきなぐさ)とは
京都町奉行所の与力を勤めた神沢 杜口(かんざわ とこう)がまとめた前編・後編をあわせて全200巻の随筆。室町時代末期から寛政三年(1791)までの約200年間の歴史的出来事から人物、文学、宗教、道徳、風俗、地理、経済、伝説などが書かれている。政策年は明和九年(1772)~寛政三年(1791)。

木綿藤吉(もめんとうきち)

木綿は丈夫でいろんな用途があります。例えば衣類にもなるし軍の旗や日常生活で使う風呂敷き、使い古せばオムツ、雑巾など。後に太閤・豊臣秀吉となる木下藤吉郎秀吉も、雑用から合戦のサポート、そして軍を率いての城攻めなど、いろんな活躍をした武将でした。木綿の様に使い勝手がよいのです。

そんな豊臣秀吉の生誕地は現在の名古屋市中村区にある中村公園といわれています。戦国時代にここは尾張中村という村があり、秀吉もそのどこかで生まれたといわれています。この中村公園に隣接する常泉寺には秀吉の産湯井戸が残されています。

米五郎三(こめごろうざ)

織田家にとって米の様に必要な人物という意味で米五郎三(こめごろうざ)といわれたのが丹羽五郎長秀(にわごろうながひで)。合戦で城を落とす手柄はもちろん、安土城の築城総奉行など土木工事でも才能を発揮しました。もとは現在の名古屋市西区に所領をもっていた土豪で館跡の石碑が残っています。

>>丹羽長秀邸址の石碑

かかれ柴田

かかれ柴田とは織田家の重臣・柴田勝家のこと。勇猛な武将で勇猛なエピソードがいくつも残っています。有名なのが瓶割り柴田のハナシ。

◆瓶割り柴田のエピソード
大軍に居城を取り囲まれた柴田軍は飲水が数日分しかありませんでした。そこで勝家は全ての兵に城内に残っていた水を十分に飲ませ水瓶を叩き割ります。もう水が無いので眼の前の大軍を破らなければ枯渇して死ぬのみ。必死の柴田軍は敵の大軍を蹴散らしたのです。

>>この話が地元小学校の校章になりました

柴田勝家は現在の名古屋市名東区の出身。生誕地の下社城址には誕生地の石碑と名古屋市教育委員会の説明看板が建ってます。

>>柴田勝家生誕地

退き佐久間

佐久間信盛の佐久間一族は古くから織田家の家臣で信盛は撤退戦が得意でした。敵から逃げる時、味方を無事に逃がして追ってくる敵を食い止める『殿』(しんがり)という役があるのですが、信盛は『殿』(しんがり)が得意な武将でもありました。

同じ様な武将に武田四天王の高坂弾正昌信(こうさか だんじょう まさのぶ)がおり、彼も撤退戦が得意で『逃げ弾正』(にげだんじょう)と評されました。この場合の『退き佐久間』や『逃げ弾正』は臆病者とか不名誉な表現ではなく、上手に後始末をやるという意味でむしろ誰にでもできない役割ということで評価されたのです。

佐久間信盛の出生地については詳細は分かっていません。ですが佐久間一族は現在の名古屋市昭和区~南区にかけていくつか城を持っていた土豪でした。

>>伊勝城址について

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