名古屋市名東区にある猪高(いだか)小学校の校章は、戦国武将・柴田勝家の柴田家の家紋である【二つ雁金紋】(ふたつかりがねもん)を図案化したものです。ここでなぜ名古屋市名東区に柴田勝家?!という疑問が出てきます。
柴田勝家といえば、北陸の越前北ノ庄城が有名ですが、生まれは現在の名古屋市名東区。現在では明徳寺になっている下社城(しもやしろじょう)で生まれました。下社城があったのが猪高村。つまり地元の英雄ということで柴田家の家紋が校章に採用されてのです。
また校章の中の文字は【てん書】という書体で『猪高』と書かれています。そして輪郭にも勝家の故事が当てはめられています。
織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めた後、南近江の抑えとして長光寺城(滋賀県近江八幡市)を柴田勝家に守らせました。しかし信長本体が岐阜城に戻った後、朝倉義景が信長と敵対していた六角氏と組んで勝家が守る長光寺城を包囲したのです。
この時、勝家率いる織田軍は水源を断絶たれてしまい、もう数日しか籠城ができなくなりました。しかし勝家はあえて余裕があるように振る舞い、六角軍の間諜(かんちょう:スパイ)と思われる者の前で皆に水を存分に飲ませました。そして残りの水が入った瓶を叩き割り、『もう城に戻っても水はない』と言って、全軍を奮い立たせたのです。
その結果、決死の覚悟で城から出た柴田軍は、多勢だった六角軍を散々に打ち破ることができました。後にこの話を聞いた織田信長は勝家の心意気と武勇に感心し、感状(感謝状)の宛名に瓶割り柴田という名を用いたといわれています。この『かめ割り柴田』の故事にちなんで、輪郭がかめの形になりました。
ぱっと見だと、なんだか変な鳥みたいな校章だな~という印象です。しかしその由来を調べてみると、戦国武将・柴田勝家に結びつきます。これも郷土史レベルの戦国史ですね。