愛知県内に残る今川義元の墓の場所とエピソードをまとめてみました!結果から言うと、愛知県内には供養塔を含む今川義元の墓が合計6つあります。
永禄三年(1560)の桶狭間合戦で織田信長に討たれた今川義元ですが、なぜ愛知県内にこれだけ墓があるのか?それには深いワケがありました。そこでどこにどんな墓があるのか?場所とエピソードをチェックしてみましょう!
桶狭間合戦古戦場(緑区)
名古屋市緑区の桶狭間公園に残る今川義元の墓。駿公墓碣(すんこうぼけつ)と刻んであります。桶狭間古戦場公園がある田楽坪のねず塚から出土した墓碑。いつ頃作られたのかは不明です。昭和8年に建立された墓碑が隣にあります。
■住所■
名古屋市緑区桶狭間北3丁目
桶狭間古戦場(豊明)
もうひとつの古戦場、愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地にも今川義元の墓があります。もともとは塚だったのですが、明治9年5月に有松の住人・山口正義が主唱して建立したものです。また近くには仏式の墓もあります。
■住所■
豊明市栄町南舘11
首塚
今川義元の首塚と伝わる墓です。桶狭間の戦いで義元の首は織田信長に持っていかれましたが、その後、母国の駿河に返還されました。しかし傷みが激しく、西尾市の東向寺に埋葬されたといわれます。
胴塚
今川義元の胴体を埋めた塚といわれる墓です。義元の首は織田信長にもっていかれましたが、残った胴体は今川家臣たちの手によって、母国である駿河に運ばれようとしました。しかし合戦は旧暦の5月19日。今でいう初夏です。運ぶ途中で傷みが激しくなり、当時まだ今川領だった現在の豊川市牛久保町にある大聖寺に埋葬されました。
ちなみにこの胴塚は一番下が手水鉢。その理由は詳細記事からチェックしてみてください。
今川義基の墓
東海市にも今川義元の墓があります。ここは正確に言うと供養塔。桶狭間合戦後、現在の東海市に逃げ込んだ今川家臣2名がそのまま土着し、後年にかつての主君の供養のために建立した墓です。今川義基墳となっているのは、あえて義元と分からない様にしたためだとか。また近くにも落ち武者伝説が残っているので、詳しくは以下の記事からチェックしてみてください。
今川塚
清洲市にある、今川義元の供養塔です。討たれた義元の首は、須ケ口(すかぐち:清須の入り口という意味)に晒されましたが、首が駿河に返還された後、江戸時代にその須ケ口に義元の供養塔が建立されました。もともとは個人宅の敷地にありましたが、平成になり正覚寺に移築されました。
私の感想
私の今川義元の墓についての感想ですが、愛知県にこれだけの墓が残っているのは少し驚きました。しかしそれだけ江戸時代を通して、桶狭間の戦いというものが、人々の関心を惹くものだったという事が分かります。またこれらの墓が建立されている場所では、今でも今川義元や桶狭間の戦いで亡くなった方の供養祭が行われています。