豊田市金谷町1丁目にある金谷城址は、戦国時代にこの地に勢力を持っていた中条氏の居城跡です。別名・衣城。
■金谷城の場所の住所■
豊田市金谷町1丁目
鎌倉時代中期に関東より中条氏がこの地に赴任し、金谷城を築いたといわれています。その後、代々、金谷城は中条氏の居城でしたが、永禄四年(1561)に織田信長との戦に敗れて、中条氏は流浪の身となります。その後、慶長九年(1604)に三宅氏が1万石で金谷城に入城しました。
現在の豊田市金谷1丁目の勝手神社境内の隅に金谷城の石碑があるほか、周辺に堀、土塁の遺構、そして城主ゆかりの高木稲荷神社があります。
勝手神社
中条氏が文永五年(1268)に建立したといわれる勝手神社。金谷城に址に行く場合、カーナビではこの勝手神社を検索しましょう。境内の隅に金谷城址の石碑があります。
堀と土塁址
勝手神社脇の看板を見ると、竹やぶの小路(こみち)という記載がありますが、ここに金谷城の堀跡と土塁跡が残っています。まず堀跡は名鉄三河線の線路下の道。現在は通路となっていますが、勝手神社がある場所から見ると低い場所にあり、ここが堀の跡です。
以前、愛知県の城を巡る会・愛知ウォーキング城巡りクラブで金谷城址を訪れた時、この堀の感想として鎌倉時代頃の城の堀跡が残っているのは貴重というのがありました。
そして近くの竹やぶの中には土塁みたいなものが…しかし中は入ることができませんでした。
高木稲荷神社
金谷城主・中条常隆は永禄四年に織田信長と戦って負け、流浪の身になってしまいます。その時、浪士・高木某と出合い、互いに没後の菩提を弔う事を約束します。
中条常隆は病没し、高木某は常隆との約束を守るため、常隆の故郷・拳母郷にたどり着きますが、今度は高木某が病に倒れてしまいます。病の床で臥せっていると、老いた白狐が現れて中条常隆の菩提を弔う事を約束してくれました。これに大変感謝した高木某は、白狐を稲荷神として崇める事を約束し、かつての金谷城址に稲荷神社を建立しました。後世の人はこれを高木稲荷神社と称する様になりましたとさ。
私の感想
金谷城址は郷土史レベルのマイナーな城跡ですが、堀跡や土塁跡、そして城主ゆかりの神社などがあって、見どころはあると思います。所要時間は約20分ほどあれば、一通り見て周ることができるでしょう。車で訪れた場合、勝手神社の側に停める事もできます。