豊田市駒場町元城の駒場(こまんば)城址は慶雲寺の守り役だった太田備後守の居城跡です。
■駒場城址の石碑の住所■
豊田市駒場町東埜中
現地の説明石碑
東墓地より約100m西に、太田備後守の碑が草むらに建てられていた、この付近を今も元城と呼んでいる、城のあったと思われる付近に深い外堀が昭和50(1975)年頃まであったが、土地改良圃場整備工事の際の造成により全くその姿は消され今はない。
平成二十八(2016)年に当地にこの碑を移設、保存することになったものである。
この石碑の補足ですが、駒場城主の太田備後守は慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺の守り役だったといわれる人物です。慶雲寺は文明年間(1469~87)に戦禍で焼失してしまい、八橋の無量寺(知立市)に移りました。
現在では交差点の角に太田備後守碑と刻まれた石碑と案内の石版があります。でもこれは移転されてきた石碑で以前は別の場所にありました。
石碑がもとあった場所
駒場城址に建っている太田備後守碑の石碑は、現在よりも東北に150mほどの田んぼの側に建っていました。この地は元城という地名の中心みたいな場所なので、ここに館城みたいなものがあったのではと思います。
太田備後守という人物に関しては詳しいことは分かっていません。これは私の推測ですが慶雲寺を守っていた守り役なので、地域の有力者だったのでしょう。ちょうど駒場城址のすぐ近くに鎌倉街道があり、駒場の里という宿場があったといわれているので、宿場を取り仕切っていた有力者だったのではと思います。
今川義元も通った街道
駒場城址すぐ近くを通る鎌倉街道は永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、今川義元率いる今川軍が沓掛城方面に向かう時に通った街道と考えられています。当時は東海道はまだ整備されておらず、鎌倉街道が主要街道でした。
私の感想
私の豊田市駒場城址の感想ですが、謎が多い城なので調べ甲斐がある城跡だと思いました。城主の太田備後守をはじめ、宿場の様子や近隣の寺社や土豪との関係など、いつの間にか歴史に消えていった太田氏ですが、これも郷土史の楽しさのひとつだと思います。