榊原康政の祖父・清長、父・長政や松平忠吉の墓が残る豊田市幸町隣松寺

豊田市幸町隣松寺(りんしょうじ)は徳川家康や鴛鴨松平氏にゆかりが深い寺院です。徳川家康や松平氏に縁の深い寺院はたくさんありますが、隣松寺は関連する墓が多いです。それではこの記事で隣松寺の見どころをチェックしてみましょう。

■隣松寺の場所の住所■

豊田市幸町隣松寺126

>>隣松寺の場所の地図

>>隣松寺の詳細 | ウィキペディア

家康戦勝祈願の稲荷社

なぜか寺なのに境内に稲荷社があります。この稲荷社は戦国時代の三河一向一揆の時、松平元康(後の徳川家康)が戦勝祈願した後、上野上村城に籠もっていた敵と戦い勝利したといういわれが残ります。

家康が持ち帰った雲版

徳川家康と三河一向一揆の話でもうひとつゆかりの品があるのです。それがこの雲版(うんぱん)。雲版とは中国の楽器で、役所で人を集める時に打ち鳴らして用いられました。その後、鎌倉時代に禅宗の僧により伝わり、寺の食堂の前などで打ち鳴らして食事を報せる報知具であり、法具のひとつです。

さて、この隣松寺の雲版ですが、三河一向一揆の時に家康が上宮寺との合戦で敗れ、本陣だった隣松寺まで背負って逃げてきたといわれています。

そして墓所

隣松寺の墓地にも行ってみましょう。ここにも戦国武将達の墓が残っています。

内藤清長は松平清康(家康の祖父)、広忠(家康の父)に仕えた上野上村城。天文十一年(1542)に尾張の織田軍が攻めてきた時に撃退に成功。しかし三河一向一揆の際には一揆方となり、敗れて荻城(幸田町)に蟄居となり没しました。

細川義季、俊氏、義宗、公頼の墓。細川義季は鎌倉時代の御家人で足利氏ですが、三河国細川郷(岡崎市)に住んで細川氏を名乗りました。ちなみに彼の子孫が足利幕府の三管領のひとつ細川家で、江戸時代に熊本藩の祖となった細川氏。つまり元内閣総理大臣の細川護熙氏から見るとご先祖様ということです。

徳川家康四男・松平忠吉の墓。松平忠吉といえば関ヶ原の戦いの終盤で薩摩の島津義弘・豊久軍を追撃し、火縄銃で負傷。その傷がもとで数年後に亡くなったといわれています。

なぜ松平忠吉の墓が隣松寺にあるのかというと、彼の養母・於美津の方が鴛鴨松平氏の出身で、隣松寺は鴛鴨松平氏の菩提寺でもあるからです。松平忠吉の墓は隣松寺のほか、東京都港区の増上寺名古屋市千種区の性高院にもあります。

松平忠吉の墓の裏に殉死四名之墓があります。これは忠吉が亡くなった時、後を追って自害した石川吉信、稲垣忠政、中川清九郎(佐々記内)、小笠原吉光(忠重)の墓。

鴛鴨松平氏墓所にも行ってみる

現在の隣松寺から少し離れた場所に鴛鴨(おしかも)松平氏墓所があります。ここもかつては隣松寺の敷地内(寺領)だった場所です。鴛鴨松平氏は松平家三代当主・信光の子である親光を初代とし、鴛鴨城を拠点としました。

>>鴛鴨松平氏墓所の地図

徳川四天王のひとり・榊原康政の祖父・清長、父・長政の墓もあります。墓は新しいものです。

松平忠吉の養母・於美津(おみつ)の墓。於美津は鴛鴨松平氏の娘で同族の東条松平氏当主・松平家忠の妻になります。しかし夫が亡くなってしまい、東条松平氏には家康四男・忠吉が入ることになり、於美津はその養母となりました。つまり松平忠吉の育ての母ということですね。

私の隣松寺の感想ですが、ここは徳川家康、松平忠吉ゆかりの寺で三河一向一揆の時、松平軍の本陣にもなっているので、徳川(松平)が好きな方は参拝をオススメしたいと思いました。

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