岡崎市上佐々木町の上宮寺(じょうぐうじ)は、三河三ヶ寺(みかわさんかでら)のひとつで、三河一向一揆が起こるキッカケになった寺です。また境内には徳川家康の叔母である妙春尼(みょうしゅんに)の墓も残っています。
■上宮寺の場所の住所■
岡崎市 上佐々木町梅ノ木34
三河一向一揆勃発の寺なので、ある意味歴史のターニングポイントでもありますよね。では三河一向一揆の始まりをザクッとチェックしてみましょう。
一揆のキッカケ
三河一向一揆がなぜ起きたのか?簡単に説明すると以下のとおりです。永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、松平元康(後の徳川家康)は織田信長と同盟を結び、三河統一を目指します。そこでしばらくは戦が続くであろうから、家臣たちに兵粮米の調達を命じたのです。
その時、家臣の菅沼定顕が上宮寺から兵糧米を強制的に徴収しようしてしまいました。
実は上宮寺を含む、本證寺(ほんしょうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)は、三河三ヶ寺(みかわさんかでら)といわれ、領主に年貢を納めなくて良いという特権を与えられていたのです。
現在で例えるならば、『税金を払わなくて良いですよ』と歴代の県知事に言われていたのに、新しい市長に変わると市役所の職員が強制的に税金を取りに来たみたいな感じです。そりゃ、反発しますよね。
この時の上宮寺の強制的な徴収のハナシは本證寺や勝鬘寺を通して門徒(信者)にも伝わり、『そりゃあんまりだ~』ということで、新しい領主・松平元康に対して浄土真宗の本願寺門徒たちが一斉に反抗したのです。三河一向一揆の始まりのきっかけを簡単に分かりやすくいうとこんな感じです。
そして上宮寺
ということで上宮寺です。ここから中に入ります。
すると…!
なんか近代的なホール?があります。実はこれ、上宮寺の本堂なのです。戦国時代に名を残す三河一向一揆のキッカケになった上宮寺の本堂がこれとは…
実はこの本堂には事情がありました。
現地パネルにて。上宮寺の本堂は昭和六十三年(1988)に火事で消失してしまい、その後建てられたのが現在の本堂。
コンクリート製なのは、火事に対する備えなのかも知れません。
ホール…違う!本堂の前にはかつての本堂の礎石でしょうか?古びた石が有りました。
松月院妙春尼とは
境内には松月院妙春尼の墓があります。これは徳川家康の生母・於大の方の妹、つまり徳川家康からみると叔母に当たる人ですね。
なぜ彼女の墓があるのかという理由は以下の通り。
三河一向一揆は松平方が勝ち、一揆方(本願寺門徒)は追放処分になります。また寺院は破却となってしまいます。
その後、家康の叔母で熱心な本願寺門徒だった松月院妙春尼が、本願寺教団の赦免・再興に尽力し、ようやく家康の許しも得ることができたのです。
そんな彼女の遺徳を偲び、遺髪で墓を作り現在に残っているのがこれです。
私の感想
私の上宮寺の感想ですが、本堂はとてもお寺みたいでは有りませんが、ここも三河一向一揆の舞台になった寺として戦国史に出てくるので、徳川や戦国史が好きな方にはオススメだと思います。
そしてこれが上宮寺の御朱印です♪