徳川家康の祖父・松平清康は文武両道の武将で、三河をほぼ統一し、尾張の織田氏、駿河の今川氏と戦っていました。そんな清康が20歳を迎えた享禄三年(1530)の元旦、左手で【是】という字を握る夢を見たのです。
この夢は吉なのか、あるいは凶なのか…
気になった清康は、家臣たちを集めて当時居城だった岡崎城周辺の寺に夢の意味を聞いてくるように使いを出しました。数時間が過ぎ、家臣たちがひとり、またひとりと岡崎城に帰ってきます。しかし夢の意味はいろんな寺を訪ねても不明で、さすがの清康も不安になりました。
『やはり謎の夢か…』
清康があきらめかけていたその頃、最後の家臣が笑顔で戻ってきました。
家臣『殿、夢は大吉で素晴らしいとの事!!』
清康『何!』
家臣が言うには、【是】という漢字は分解すると、【日】の【下】の【人】という三文字で成り立っており、つまり日輪(太陽)の下にいる人、天下を握るという意味。殿でなければ殿の子、もしくは孫の三代以内に天下を取るというめでたい夢だとか。
この夢判断に清康は大いに喜び、夢判断をした模外(もがい)和尚に会って詳しく聞くと、模外和尚のために寺を築くと約束しました。そしてその年の6月に明大寺に堂を建て、8月に模外和尚を是字寺(龍海院)の開山第一世として迎えました。
この龍海院は禅宗だったので、浄土宗だった清康は禅宗に改宗しましたが、これを聞いた松平氏の菩提寺・大樹寺の宝譽(ほうよ)住職は、機嫌を損ねて大浜(碧南市)の清浄院へ移ってしまうというハプニングも起こりました。大樹寺は松平氏先祖代々の墓を守っていた寺でもあるので、清康は大変困ってしまい、家老の酒井正親に是字寺の檀家総代になることを命じると、自分はもとの浄土宗へ戻りましたとさ。
さて、そんな松平清康の吉夢を占った模外和尚の龍海院(是字寺)は、現在も岡崎市明大寺町にあります。
そんな龍海院
現在は曹洞宗になった龍海院。
■龍海院の住所■
岡崎市明大寺町西郷中34−1
清康に命じられたまま、現在でも酒井正親家の菩提寺であると共に、徳川家康の継母・真喜姫の墓もあります。
山門をくぐると…是字寺(ぜのじでら)の大きな石碑がありました。松平清康の夢ゆかりの石碑ですね。ちなみにこの龍海院は、名鉄東岡崎駅から徒歩3分くらいなので、電車で岡崎城に行くならセットで訪れることができます。
山門の瓦をよく見ると、【是】の字です。これ、特注でしょう。
また龍海院の墓所には、清康の命により檀家総代になった酒井正親の墓があります。
これが龍海院の御朱印。左下に是字寺龍海院の文字がハッキリと記帳してありますね。
さて、是の字の夢に喜んだ松平清康は、その後、宿敵だった尾張の織田氏を成敗するために尾張守山まで軍を進めますが、守山城で家臣のカンチガイがもとで暗殺されてしまいます。享年25。それが守山崩れという、松平氏の大きな悲劇でもありました。
この守山崩れの後、松平氏は単独で存続することも難しく、駿河の今川氏の力を頼ることになりますが、清康の孫・徳川家康によって江戸幕府が開かれ、夢のお告げ通り孫が天下人になったことは、あなたもご存じでしょう。たった25年の人生だった徳川家康の祖父・松平清康ですが、三河や尾張といった愛知県に数々のエピソードを残しています。後世、『あと5年生きていたら天下が取れた』といわれるほどの傑物・松平清康。まあ、さすがに5年じゃ天下は無理でしょうが、織田や今川と激しく攻防していたのでしょうね。
所要時間と私の感想
松平清康ゆかりの龍海院(是の字寺)は、以前、愛知県や名古屋市の城跡、戦国時代の史跡を巡る歴史サークル・愛知ウォーキング城巡りクラブで訪れました。その時の感想としては以下のようなものがありました。
・名鉄東岡崎駅の近くにあったのは知らなかった
・岡崎城と一緒に行ける距離
・数少ない松平清康ゆかりの史跡
・逸話を知らないと『是』の字の意味は分からない
など。
龍海院の所要時間は墓所まで行くと約10分ほど。私の感想ですが、岡崎城に行く時の最寄り駅である名鉄東岡崎駅近くなので、徳川家康騎馬武者像などとセットで岡崎城に行く時に楽しめると思います。
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