岡崎市竜泉寺町の大久保家墓所は松平氏、そして徳川家康に仕えた大久保一族の墓所です。松平氏や徳川家康の歴史を語る時、欠かせない家臣が大久保氏。長福寺はその大久保氏の菩提寺で武将たちの墓があります。
本堂から離れた駐車場
岡崎市長福寺は車でアクセスしますが、注意したいのは墓所は本堂から離れているということ。墓所には駐車場があるので車で直接行くことができます。
宇津(大久保)忠茂の墓
宇津(大久保)忠茂は大久保氏の祖といわれる人物で徳川家康の祖父・松平清康に仕えた武将。知略と政治力の高さを物語る次の様な逸話が残っています。
その結果、岡崎城は降伏したため清康から武功抜群と激賞され、望みのままの恩賞を与えるといわれましたが、忠茂はこれを固辞します。 そのかわりに領内に市場を開くことを求め許可されました。忠茂はこの市場で貧民に温情をかけて租税を軽くしたので、領民は清康の徳を称し、清康は忠茂の忠義を賞しました。
この逸話は岡崎の歴史物語編集委員会編が発行した岡崎の歴史物語という本にも記載され、それによると岡崎城近くの岡崎市連尺町(れんじゃくちょう)あたりに市があったとしています。
大久保彦左衛門忠教の墓
もしかすると大久保一族で一番有名人かもしれないのが大久保彦左衛門忠教(ただたか)かもしれません。三河物語の著者で江戸時代にはいくつもの講談で庶民に親しまれた人物です。
大久保忠俊の墓
大久保忠俊は宇津忠茂(大久保忠茂)の子で、徳川家康の父・松平広忠を支え続けた武将です。また安祥城を攻め織田信長の兄・織田信広を生け捕ったのはこの人で、後に竹千代との人質交換に繋がりました。
大久保忠員の墓
大久保忠員(ただかず)は徳川家康の祖父・松平清康の頃から3代に渡って仕えた宿老で大久保忠世、忠佐、忠教の父です。弘治元年(1555)今川方によって蟹江城が攻略された時に武功があり蟹江七本槍と称されました。
私の感想
私の岡崎市長福寺大久保家墓所の感想ですが、歴史に名を残す武将たちの墓所がここということで、参拝できたのは嬉しかったです。江戸幕府を開いた徳川氏を支え続けた大久保一族ということで、気になる方は是非、参拝してみましょう。