岡崎市桜形町(旧額田町)の日近城址は作手を拠点としていた奥平氏の一族・日近奥平氏の居城跡です。また付近で起きた日近合戦は徳川家康(松平元康)の初陣という説もあります。
■日近城の住所■
岡崎市桜形町一本柿
まずは地形
日近城に行った時、まず見てほしいのがその立地条件と地形。2本の川の合流地点のすぐ上の山に城があるので、攻めにくのがすごく分かります。日本100名城の長篠城も同じく2本の川の合流地点にあって、30倍の武田軍を相手に持ちこたえました。
そして鳥瞰図
これは日近城跡の本丸にある鳥瞰図(ちょうかんず)です。日近城の縄張りは山の尾根を利用して本丸、二の丸、三の丸を一列に配置した連郭式(れんかくしき)というタイプの城。シンプルですが、防御効果抜群の縄張りです。
広祥院から日近城へ
日近城は広祥院の脇道から山に登ります。途中に案内看板がありますが、これらは地元の岡崎市立形埜(かたの)小学校の児童が作成したものです。
※ 形埜の読みは かたの
すごく分かりやすい案内看板で、城巡りする時に重宝します。
これは鳥瞰図には無い曲がった道。おそらく虎口ですね。三の丸の前にあります。
そして三の丸(三の曲輪)。削平地になっており、下は登城道なのでまずはこの曲輪から見下ろす事ができます。
虎口
二の丸を過ぎた場所に虎口があります。丸く円を描く様に道が曲がっているのは、敵を側面攻撃するためです。シンプルな縄張りですが、攻めにくさがよく分かります。
そして本丸
本丸は一番上の削平地。ここに案内看板と鳥瞰図があります。
日近城は標高約270メートルの尾根の先端に築かれ、守りを意識した山城で、砦、詰城として利用した。広祥院由緒によれば、奥平氏三代目貞昌が文明十年(1478)日近に侵出し、広祥院中興したとある。日近城はこの時期に築城された。
奥平氏は十四世紀後半から作手に本拠地を構え、周辺に勢力の拡大を図ってきた国人領主である。貞昌は次男・貞直(貞頼、久兵衛)を日近に配し、日近奥平家の初代とした。貞直は当時三河に勢力を得ていた今川氏についていたが、弘治二年(1556)離反して織田氏に与したことから日近合戦となった。この時は今川方の軍をよく防ぎ戦果をあげた。
しかし半年後の雨山合戦で今川軍に負けた本家作手の四代目・貞勝により、貞直は駆逐させられ長男・彦九郎は討ち取られた。その後、日近は本家の支配となり、天正十八年(1590)関東移封による廃城まで続く。約100年間のことである。
日近城の縄張りは、築城当初は本曲輪、二の曲輪。三の曲輪を西に向かって直線に配置した単純な連郭形(連郭式)であった。その後、本曲輪を半周する腰曲輪や南の尾根を遮断する堀切、南に大手口となる枡形虎口を造っている。小規模ながらも中世の山城をして重要な軍事的役割を果たした城である。
本丸を取り巻いている土塁。廃城になってから400年以上経ってますがまだ残っています。
特筆するのは本丸側面の崖です。木々で覆われていてよく見えませんが、急峻な崖になってます。甲冑(具足)付けて登るのはかなり困難な崖です。
本丸横の帯曲輪
本丸の脇は急峻な崖がありますが、反対側は帯曲輪みたいな細長い曲輪です。ここから本丸が見えますが、5mくらいの高低差と人工的に角度を付けた切岸がハッキリと分かります。
そして奥に行くと堀切がありました。堀切とは山の尾根を断ち切って作られた堀のこと。尾根伝いに侵入してくる敵を阻みます。
あと個人的に思うのは、看板がある堀切の先にトイレがありますが、その手前も堀切ではないかな?と思うのです。
おふうさんの墓
日近城には奥平氏が武田に付く時に人質にされた3人の墓があります。
おふうは、日近城主二代目、奥平久兵衛貞友の娘である。元亀元年(1570)、奥平本家の仙千代(仙丸)、日近家のおふう等は武田方の人質として送られた。しかし天正元年(1573)、奥平氏は武田にそむいたので、仙千代らは鳳来寺口で処刑され、さらし首となった。そこで、乳母と柳田専念寺の僧・永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうを生地であるこの地に葬った。
ここがおふうの墓所である。向かって左がおふう、中央がおふうの祖母・貞子、右が仙千代である。なお、おふうはおやす、おつう、おあわ、おひさ等とも呼ばれていた。
額田町紋家財保護委員会
私の感想
私の日近城の感想ですが、コンパクトでシンプルな縄張りですが、堅固さが分かる城跡の例として、山城が好きな方にオススメです。また長篠設楽原の戦いで、武田軍から長篠城を守った奥平一族ゆかりの城なので、ここも郷土史レベルの戦国史を楽しむことができると思います。