豊川市に長沢という場所があります。江戸時代の東海道と現在の国道1号線が通る地区です。そこに豊川市立長沢小学校があるのですが、学校横に看板があります。これを見てみると以下の様に書かれています。
長沢城跡と御殿
長沢は東西三河の境目にあり、西側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。東海道を挟んで南(御城山山頂)に岩略寺城、北(古城団地)に長沢城跡がある。
長沢城は東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の前面を土塁や三重の堀が巡り、南側に出入り口があった。現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。
また寛永十一年(1634)家光上洛のときに休憩所として建てられたといわれる御殿が長沢小学校敷地内にあった。
豊川市教育委員会
これを読むと現在の豊川市立長澤小学校が江戸時代の徳川家光(三代将軍)上洛の時に建てられた御殿跡、そして近くには長沢城があったことが分かります。
看板には元禄十二年(1699)の絵図を模したパネルがありました。これに補足を入れるとこの様になります。まずは現在の豊川市立長沢小学校がある場所に御殿がありました。その北には戦国時代の長沢城があり、東海道の南には岩略寺(がんりゃくじ)城があったのです。
そして長沢城址
長沢城址は長沢小学校の北を走る国道1号線の向こうに広がる住宅地(古城団地)です。入り口に長沢城跡の碑が建ってます。
城主の長沢松平氏とは
長沢城の城主は長沢松平氏。分かりやすくいうと徳川氏の分家(親戚)です。三代目当主の松平信光の十一男・親則(ちかのり)が分家して長沢松平氏の祖となりました。ちなみにこの長沢松平家からは徳川十六神将の一人にかぞえられている松平康忠(徳川家康の従弟)や家康の六男・松平忠輝が出ています。
もうひとつの碑
長沢城は住宅地として開発されたので遺構らしいものはもう残っていませんが、住宅地の中にも石碑があります。これには長澤城址とありますが長沢と同じ意味です。
私の感想
私の長沢城と長沢御殿の感想ですが、遺構は残っていないものの、東海道や岩略寺城とセットで訪れる事ができるスポットだと思いました。それぞれの所要時間は5分とかなので、山城の岩略寺城とセットにするとよいです。