豊川市牧野城址は戦国時代初期に東三河に勢力を広げた牧野成時(牧野古白)が拠点にするために築いた城のひとつです。
■牧野城址の住所■
豊川市牧野町丁畑
現地看板
平成七年二月十三日指定
牧野城は、戦国時代に東三河地方に勢力をふるった牧野氏が最初に築城した城として名高い。築城は応永年間(1394~1428)に遡り、足利将軍義持の命により新補地頭となった田口(田内)伝蔵左衛門成富が、四国の讃岐からここ三河国中条郷牧野に来住し、城を構えたといわれている。
成富の子・成時(古白)はこの地方で勢力を拡大していき、明応二年(1493)に一色城(豊川市牛久保町)の城址・波多野全慶を討ち、同年瀬木城を築き、名も地名をとって牧野を称するようになったとされる。その後成時は、永正二年(1505)に今橋城(後の吉田城)を築いてこの城に居を移し、同年牧野城は廃城になったと伝えられる。
当時の牧野城は豊川の旧河道に面した自然堤防上に立地しており、発掘調査の結果、城の規模は南北102メートル、東西が北堀で72メートル、南北で48メートルあったことが確認された。城の形態はいわゆる掻揚城(かきあげじろ)であり、今でも南側の土塁が良好に保存され、高いところで約3メートル、幅は最大約13メートルをはかる。このように、立地状況や規模からして牧野城は防御を意識した造りをなしており、当時の動乱の時代を表している。
出典『牛窪密談記』『宮島伝記』
豊川市教育委員会
発掘調査の結果
現地案内看板の牧野城の発掘調査の結果図面。これを見るとL字形の土塁ともうひとつの土塁、そして外側にある堀が確認できます。現在では豊川市指定文化財になっているので、これ以上破壊されませんが、当時はどの様な規模の城だったか妄想が進みます。
残る遺構
牧野城の遺構で特徴的なのがL字形の土塁です。廃城になって500年近く経つので当時はもっと高かったのでしょう。
これは内側(城内)から見た土塁。この部分はシッカリと残っていますね。この外側に堀跡が残っています。
堀の左右の高低差がハッキリと残っています。かなり埋まったと思いますが、堀の規模は分かります。私の牧野城址の感想ですが、遺構の残りは少ないですが、東三河の土豪・牧野氏の居城ということで、東三河の郷土史に興味がある方は是非、チェックしたほうがよいと思いました。場所とどんな遺構なのか、これを知っておくと牧野氏を語る時に役に立ちます。