豊川市に残る三河牛久保城跡は戦国時代にこの地に勢力を持っていた牧野氏の居城跡です。また天正三年(1575)長篠設楽原に向かう織田信長が宿泊した牛窪の城というのが、この牛久保城と考えられています。(信長公記)
牛久保城跡は石碑のみと思われがちですが、高低差や地名そして土塁跡や前身の城だった一色城跡など隅々まで巡ると見どころも多い城です。この記事でまるごとチェックしてみましょう。
牛久保城の石碑の場所
まず牛久保城の石碑の場所ですが、JR飯田線・牛久保駅の線路を渡ってすぐのところ(東側)にあります。つまり牛久保駅もかつての牛久保城の城域だったのでしょう。
古地図をチェック
牛久保城跡の石碑が建立してある広場の前に牛久保城付近の古図の看板があります。これを見ると東南側に天然の堀を想わせる大河があり、東北側に一色城、大聖寺があります。
また牛久保城の東、北、西に向けて二重の水堀があった様です。今では住宅開発によりこれらの水堀は残っていません。
ちなみにこの古地図は光輝院蔵(豊川市光輝町)の牛久保城下の古図で豊川市の公式サイトで紹介されています。
牛久保城の高低差
先程の光輝院蔵の牛久保城下の古図を見てみると、東~南にかけては大きな川になっています。つまり天然の堀ですね。
古地図の大河を想わせる高低差がJR牛久保駅南側に残っています。駅から南側を見るとガクンと下がっているのです。つまり南側は大河の埋め立てなのでしょう。
そして地名
JR牛久保駅周辺には牛久保城を想わせる地名(字名)が残っています。それが牛久保町城跡、城下、大手です。大手(おおて)というのは大手門といえばわかりやすいでしょうか?城の玄関口です。城の遺構は消えても地名が残っている事例ですね。
前身の城・一色城
牛久保城の歴史を調べると、いきなりこの地に牛久保城が築かれたのではなく、もとになった城(前身の城)がありました。それが一色城です。
一色城は永享十一年(1439)に一色刑部少輔時家により築かれた城といわれています。古地図にも一色城が記載されています。この一色城は後に牛久保城の一部として組み込まれた様です。
一色城の土塁跡
今川義元の胴塚がある大聖寺近くの民家に一色城の土塁跡が残っています。高さ約2m、幅約5mほどの土塁跡です。数百年経った今でこれだけの規模ですから、当時はもっと高かったのでしょう。土塁の前に碑があります。
大聖寺にも一色城の土塁跡が残っています。場所は大聖寺の墓所にある今川義元の胴塚の後ろにある土塁です。この根拠ですが、愛知県教育委員会発行の愛知県中世城館跡調査報告Ⅳ東三河に一色城の土塁として説明があります。
また地籍図によると大聖寺の土塁と東にある土塁は別区画の土塁になるそうで、繋がっていた訳ではなさそうです。
大聖寺、つまり一色城の南もガクンと低くなっています。これは自然地形で古地図にある大河の名残なのでしょう。ここから分かる事は一色城もその後の牛久保城も南側から見ると大きな川の崖の上にあった城だったのでしょう。
一色時家の墓
ところで一色城を築いた一色時家の墓は大聖寺にあります。つまり一色城の初代城主の墓ということですね。今川義元の胴塚のすぐそばにあるので、見落とさないようにチェックしてきましょう。
私の感想
私の感想ですが、牛久保城は石碑だけと思いがちですが周辺を見るとディープな見どころも多い城跡だと思いました。
また一色城内に建立された大聖寺には今川義元の墓(胴塚)があるので、桶狭間の戦いを研究している方や今川義元が好きな方は参拝されると思います。
その時、牛久保城や一色城の高低差や地名そして土塁跡などもセットで巡ると、旅の満足度も上がると思います。