武田信玄の軍師ともいわれている戦国武将の山本勘助晴幸。彼が武田信玄に仕える前の前半生はよく分かっていませんが、三河生まれ三河育ちという説があり、勘助に関する史跡が豊橋市や豊川市の残っています。今回は勘助の生誕地と青年期を過ごした養子先の史跡をチェックしてみましょう。
生誕地は豊橋市
日本続100名城に指定されている吉田城がある豊橋市。山本勘助晴幸はここの出身だといわれています。豊橋市加茂町には山本晴幸(勘助)生誕地の石碑が建立されています。
■山本晴幸生誕地の石碑の住所■
豊橋市賀茂町下鶴1
現地案内看板より。これを見ると先祖は清和天皇の後裔の山本遠江守義貞で、その後、山本氏は三河に移住したことが書かれています。
青年期を過ごした養子先
三男だった勘助はその後、現在の豊川市牛久保町の大林勘左衛門貞次のもとへ養子に出されます。当地には勘助の養父だった大林勘左衛門貞次の屋敷跡の碑があり、青年時代の山本勘助が過ごした場所といわれています。現在は牛久保町の寺町公園に碑が建っています。
■大林勘左衛門貞次の屋敷跡の住所■
豊川市牛久保町八幡口44
大林勘左衛門貞次とは誰?
大林勘左衛門貞次は牛久保城主の牧野氏に仕えていた家臣と考えられています。光輝院蔵の牛久保城下の古図を見てみると、大林勘左衛門貞次の屋敷が記載されています。私の感想ですが城に近い場所なので、牧野氏の家臣団でも上位だったと思います。
山本勘助との関係
豊川市教育委員会の説明だと以下のとおりです。山本勘助は明応九年(1500)8月15日に八名郡加茂村(豊橋市加茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名乗っていました。
勘助は15歳の正月に牛久保の牧野家家臣・大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、26歳の時に武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、35歳の冬に大林家に帰ってきました。
しかし大林家では勘左衛門に実子が生まれていたため、父子の縁を切り、養家を離れて関東の地に歴遊の旅に出掛けます。そして45歳の時に甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕えたのです。この事から山本勘助が15歳~26歳まで過ごしたのが大林勘左衛門貞次の屋敷だと考えられています。
屋敷跡の現在
大林勘左衛門貞次の屋敷跡は現在、牛久保町の寺町公園になっており、屋敷跡の遺構などは残っていません。公園の前に碑が建つのみです。私の感想ですが、山本勘助は大河ドラマ・風林火山で有名になりましたがまだまだ謎が多い人物で、武田信玄に仕える前の詳細が分かっていません。そんな中、勘助が青年時代を過ごしたと考えられる大林勘左衛門貞次屋敷跡は貴重な史跡だと思います。