豊川市糟塚砦は徳川家康が吉田城攻めの時に拠点を置いた砦跡

豊川市小坂井町にある龍徳院は徳川家康(当時は徳川家康)が吉田城を攻めるための居転とした砦跡です。

>>糟塚砦跡の地図

糟塚砦

現在の龍徳院の境内全部がこの砦の跡であり、堀の内部の面積は約三五アールある。堤や堀はその当時のものであるこの砦は徳川家康が一五六三~四年に造ったものとされ、家康も数回ここを巡視されたと伝えられている。

一五六四年、吉田城攻撃にあたっては、岡崎城の本拠をこの砦に置かれたもようである。吉田城攻撃後、間もなく撤退した。なお、龍徳院は一五八六年に河出宮内大輔によって開基されたものである。

豊川市教育委員会

時期的にはいつ?

豊川市教育委員会の説明看板には永禄六~七年(1563~64)と記載があります。桶狭間合戦後に岡崎城で独立した後、三河を統一しようとしていた頃です。ちなみにまだ徳川家康ではなく、松平元康と名乗っていました。

そして砦跡

龍徳院の山号が大城山(だいじょうざん)。城跡(砦跡)を想わせる山号です。

本堂の裏に残る堀と土塁。豊川市教育委員会の説明看板によれば当時のもの。かなり埋まっていますが今でもハッキリとわかります。

本堂裏の堀と土塁も貴重ですが、個人的に印象深かったのは南に向かって下がっている地形。吉田城に向けて下がっています。糟塚砦は吉田城を攻める時の拠点なので、かつては吉田城方面を見下ろすことが出来たと思いますし、逆に吉田城から攻め返された場合、高台にあるので守りやすいです。

私の感想ですが豊川市糟塚砦跡は堀と土塁、そしてこの大地の高低差だけでも砦の雰囲気を楽しめる場所だと思いました。

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