愛知県蒲郡(がまごおり)市の形原城は、形原松平氏発祥の地で、その拠点・形原城跡が残っています。形原松平市は江戸時代、各地を転封し幕末まで存続しました。藩主となったのは以下の通り。
- 上総国五井藩
- 摂津国高槻藩
- 下総国佐倉藩
- 丹波国篠山藩
- 丹波亀山藩
そんな形原松平氏発祥の地が愛知県蒲郡市であり、初期の拠点が形原城です。
■形原城跡の場所の住所■
蒲郡市形原町東古城38−2
形原松平家のポジション
形原松平市は松平宗家(そうけ)三代・松平信光の五男・与副(ともすけ)を祖とする家系。
※宗家(そうけ):現在の言葉で分かりやすくいうと一族を束ねるリーダー家のこと
そして城跡
形原城跡の中心部は少し小高い丘の上に建つ古城稲荷社になっています。現在残る縄張りは曲輪が2つほど残っているのみ。
徳川家の親戚・ #形原松平家 の拠点だった #片原城 址(#蒲郡市片原町)。水軍を持っており三河湾を見渡せる場所にあります。城跡は開発が進み遺構は曲輪くらいですが、海からの高低差そして今に残る東古城、北古城、南古城、南市場の #地名 で城を偲ぶことができます。 pic.twitter.com/yew9xfdxkB
— 愛知戦国史跡ナビゲ-タ-・みかわのひで (@mikawanohide) May 21, 2024
二の丸?から北側を見渡した風景。入り江になっています。形原城主は水軍をもっていたと考えられますので、かつては目の前の海で水軍の調練(訓練)もしていたのでしょうか?
城内にある、お妙塚。五代当主・松平家忠の息子、又七郎(後の六代・家信)が十三歳の頃、敵方の刺客の襲われそうになった事がありました。又七郎の乳母・お妙が身を挺して守り、又七郎は助かりましたが、お妙は亡くなります。お妙の亡骸は城内ゆかりの場所に手厚く葬られ、墓標として桜の木が植えられました。そのお妙を顕彰するための塚なのでしょう。
形原城後代目の城主・松平家忠公の長子に幼名又七郎(後の六代家信)がいた。又七郎は英明であったが、短期でわがまま、家臣の嫌われ者であり、これをたえず心痛していたのが乳母の『お妙』である。
天正九年(1581)春、北条方の間者、明鳥左馬之助という侍に、十三歳才の又七郎が暗殺されようとした時、乳母のお妙が身をもって若き主君の一命を救ったといわれる。お妙のなきがらは、当城つづく限りの守護神にと城内ゆかりの場所に手厚く葬られ、墓標がわりに桜の若木が植えられた。
いつのころからともなく、この桜を『お妙桜』とよび、春に花が咲くごとにお妙を回想して限りない敬意をはらい、その霊魂をなぐさめたと伝えられている。昭和十五年に塚をたてるときに五輪塔が発掘され、毎年二月第一日曜日には供養祭が営まれている。
昭和四十七年一月一日
塚の近くに桜の木が1本有りましたが…これがお妙桜でしょうか?
本丸と思われる一番高い場所には古城稲荷社があり、形原城址の石碑も有りました。ココからは木が生い茂っており、周辺の景色はあまり見えません。
片原城は海岸に突き出た丘陵の上にあり、三河湾を一望できる要害の地に位置していた。現在も付近に東古城、北古城、南古城など地名が残っていて、その城域は広範囲であった。
平安時代(延暦13年(794)~文治元年(1185)/建久3年(1192頃)の終わり頃、清和源氏義光の孫の方原二郎師光(もろみつ)が東古城を築いたと伝えられている。その後、長享年間(1487~89)に松平三代・信光の四男与副(ともすけ)がここに移り、『形原松平』と称した。北古城、南古城はこの時代に築かれたものであろう。形原松平は初め今川氏に属していたが、後に徳川氏に従って各地を転戦し、慶長六年(1601)ここに戻るが、元和五年(1619)に六代・家信が摂津国高槻藩主として転封されたのを最後に廃城となった。
海岸の埋立てや宅地造成などで、城の形はほとんど消失したが、稲荷社がある付近の東古城は一の曲輪・二の曲輪跡を残している。
昭和四十六年十月二十一日指定 蒲郡教育委員会
私の感想ですが、形原城跡はこじんまりとしててあまり見るものもなく、所要時間は20分もあれば一通り見る事ができると思いました。あと地図を見ると形原城の周辺に城郭関連地名が多く残っています。
城郭関連地名とは、分かりやすくいうと城ゆかりの地名(字名とか)。形原城の例ですと、周辺の住宅地に北古城、東古城、南古城などがあり、かつて城域だったのではないかと思われます。また北馬場、南馬場は馬の訓練場だったのでしょうか。