続日本100名城に認定されている愛知県豊橋(とよはし)市の吉田城は見どころも多いです。そんな中、池田輝政が城主だった頃の石垣が2ヶ所あります。
池田輝政は関ケ原合戦に東軍として出陣し、その時は吉田城主だったのです。そして関ケ原の戦いの戦功により、播磨姫路に転封となり、姫路城を築きます。つまり吉田城に残る池田輝政時代の石垣は江戸時代より前のものということですね。では吉田城のどこに池田輝政時代の石垣があるのか?この記事ではその2ヶ所の場所を説明します。
輝政期の石垣はこの2ヶ所
吉田城野池田輝政期の石垣は以下の2ヶ所です。(令和六年(2024)3月現在)
- 本丸鉄(くろがね)櫓下の石垣
- 本丸東の裏御門跡の石垣
では現地を見てみましょう。
鉄(くろがね)櫓下の石垣
#続日本100名城 に認定されている愛知県 #豊橋市 の #吉田城。見どころのひとつに #池田輝政 が城主時代に築かれた #野面積み の石垣が現存しています。鉄(くろがね)櫓下の石垣です。輝政は吉田城主として #関ヶ原 に参戦。その後播磨に転封となり #姫路城 を築きます。 pic.twitter.com/Or53eZloZG
— 愛知戦国史跡ナビゲ-タ-・みかわのひで (@mikawanohide) 2024年3月8日
まずは吉田城のシンボルとも言える、本丸鉄(くろがね)櫓下の石垣。これが江戸時代前の池田輝政が城主だった時期の石垣です。
石垣の工法は自然石をパズルの様に組み合わせる野面積み(のづらづみ)。数百年建っても崩れておらず、技術の高さがわかります。
本丸東の裏御門跡の石垣
もうひとつは令和二年(2020)に公開された本丸東の裏御門跡の石垣。ここは中央部分が江戸時代に積み直されています。
これは令和二年(2020)の現地説明会の時のパネル。これをよく見ると点線部分の内側が江戸時代に崩れて積み直された部分で、その外側が池田照政(輝政)時代の石垣です。
よく見ると石垣ラインや工法の違いもわかります。
さらに石垣の上を見てみると木の根が石垣を覆っています。このまま成長すると石垣を根っこが崩しかねないので、この木の対策も早めに検討する必要があるでしょう。
感想
私の吉田城の池田照政時代の石垣の感想ですが、数百年経つ石垣が残っているので見ごたえがあると思います。このほか、吉田城には見どころもたくさんあるので、現地案内看板でチェックしつつ、この池田輝政時代の石垣も楽しんでください。