今川氏に従い戦国時代に豊橋市南部を支配した畔田氏の豊橋市畔田城址

豊橋市城下町の畔田(くろだ)城址は戦国時代に現在の豊橋市南部に勢力を持っていた土豪・畔田氏の居城です。

■畔田城址の住所■

豊橋市城下町築地ノ内

>>黒田城址の場所の地図

黒田城址のアクセス

黒田城址への行き方はいくつかあります。その中で私が地元の方から教えて頂いた道は、畔田城址の北側にある畑地から入る道。奥の森が畔田城址です。

そして城内

森を進むと土塁があって道が食い違いになっています。どうも虎口みたいです。

堀が両脇にある細い道、土橋ですね。でも土橋自体も崩落しており、そこに木の橋が架けられています。両脇の堀は見応えがあります。

畔田城の歴史

本丸と思われる手前に案内看板がありました。

 豊橋の埋蔵文化財 畔田城址

 畔田城は、畔田氏の本拠地であったと考えられています。畔田氏については不明な点が多いものの、戦国時代の寛正二年(1461)以前には豊橋市南部を支配し、草間町や野依町(のよりちょう)付近に城を築いたほか、戸田氏支配前の田原にも在住していたことが分かっています。今川氏に従い、弘治三年(1557)には吉田天王社(現吉田神社)の花崎祢宜名(はながさきねぎみょう:豊橋市松山町付近にあった土地)を石田式部丞と争うほど勢力を伸ばしましたが、その後今川氏とともに没落したと考えられています。

 畔田城址は、遠州灘に面した台地の上に立地し、外洋に面しているため付近は激しい海蝕(かいしょく)を受けています。谷に挟まれた台地の先端に主郭を設け、その北側には土橋を設けて、さらにその北側は周りを掘り込んで区画した小規模な郭と連結させている様な構造です。ただし、遺構は太平洋戦争末期の本土決戦準備で築かれた陣地によって大きく改変されており、堀とされるところも本来の形状をとどめていません。城としての遺構の評価には、さらなる検討が必要です。

 豊橋市教育委員会

看板の補足ですが、戸田氏が渥美郡に進出してくる以前に、この周辺に勢力を持っていた土豪が畔田氏です。また赤沢城、畔田屋敷の別名もあります。

豊橋市小松原町の東観音寺の古記録によると、寛正二年(1461)、本堂棟札に『畔柳遠江守』、『同弟修理亮』の名前が見られるとのことから、畔田氏は戸田氏がこの地にやってくる前に勢力をもった豪族だった事が分かります。畔田氏は畔田城を拠点とし、田原から豊橋南部の梅田川優位木に掛けて勢力を誇り、草間城、雉子山城、中瀬古館、上地城にも一族を配していました。

文明七年(1457)以降、戸田宗光の進出で畔田氏は戸田氏に属しましたが、後に今川氏が東三河へ進出してからは戸田氏と共に今川氏に属しました。そして桶狭間合戦後、今川氏勢力が三河から退いた際、畔田氏も没落して遠江国平川郷(現在の場所は静岡県菊川市)へ去っています。

現地案内看板にある高田徹氏作図の畔田城址の縄張図(なわばりず)。全体がどうなっているのか分かりやすいです。

豊橋市教育委員会の案内看板後ろに2つの社がある広い削平地があります。本丸でしょうか。

本丸と思われる曲輪の奥はすぐに遠州灘です。看板に海蝕(かいしょく)を受けているとありましたので、もしかするともっと南側にも城が広がっていたのかもしれません。畔田城址の所要時間は20分くらいでした。

私の感想ですが、畔田城址はどこまでが当時の遺構か分かりませんが、郷土史として畔田氏を見てみると、その歴史が気になります。畔田氏は畔田城のほかにも現在の豊橋市に残る草間城、雉子山城、中瀬古館、上地城が一族の城なので、どんな歴史を歩んだ土豪なのかが興味があります。

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