豊橋市富本町の十三本塚(ともみとづか)と福岡地蔵尊は今川氏真の命で処刑された13人を供養するために建立された石碑と地蔵尊です。現在、愛知大学がある場所は高台になっていますが、戦国時代に処刑された人質のエピソードが残る場所なのです。どんな話なのか?分かりやすく説明します。
桶狭間合戦後の悲劇
戦国時代中期頃まで現在の愛知県豊橋市を含む東三河は駿河・遠江(現在の静岡県)の大名・今川氏の影響力が強い土地でした。そんな中、永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が討死すると、松平元康(後の徳川家康)が岡崎城で今川氏から独立します。
その後、松平元康は三河統一を進め東三河にも攻めてきました。そして東三河の有力者たちは松平氏に従うようになっていったのです。これに怒った今川義元の息子・今川氏真は、吉田城にいた東三河の有力者の家族たちを処刑しました。
記録によると今川氏真は当時、吉田城主だった小原鎮実に命じて、龍拈寺(豊橋市新吉町)の門前で処刑し、寺から南へ2.6 kmほど離れた小池の中野新田、現在の富本町に埋葬しました。
そして十三本塚
その人質たちを埋葬したのが現在の豊橋市富本町にある十三本塚(とみもとづか)付近ということです。富本町の場所は愛知大学や豊橋市立福岡小学校、豊橋市立南部小学校、そして愛知県立豊橋工科高等学校がある辺りです。
■富本塚の住所■
豊橋市富本町7
ちなみにこの時に処刑された人質が13人おり、その人達を埋葬したので十三本塚といわれ、地名も富本町になったとか。また昭和53年の時点でこの石碑周辺に5つの塚が残っていたそうですが現在ではありません。
供養のために建立された福岡地蔵尊
十三本塚から北に約400m行ったところにある福岡地蔵尊は、この時に処刑された人たちを供養するために建立されたお地蔵様です。現在では交通安全の地蔵尊にもなっています。
■福岡地蔵尊の場所の住所■
豊橋市小池町上ノ山22
現地案内看板には、記録に残る処刑された人たちの名前が記載されていました。スマホだと読みにくいと思うので、看板に書かれている内容を起こしてみます。
永禄五年(1562)徳川家康が今川氏に対し反旗を翻したとき三河の諸将は旗幟を明らかにして家康に従った。当時是等諸将の人質が吉田城に居たのであるが今川義元の子・氏真は大いに怒って吉田城主の小原 鎮実(おはら しげざね)に命じて浅羽三太夫の妻と子を含めて諸将の妻を城下龍拈寺口に於いて串刺し福岡のこの地にあった龍拈寺墓地に屍体を葬った。
伝説に残る十三人とは
松平玄蕃允清善の妻
松平又七家廣の妻
菅沼新八郎定盈(さだみつ)の妻
菅沼左衛門貞景の妻
西郷弾正左衛門正勝の妻
水野藤兵衛の妻
大竹兵右衛門の妻
浅羽三太夫の妻
浅羽三太夫の子
奥山修理の妻
白井麦右衛門の妻
設楽越中守貞道の妻
奥平九八郎貞能の妻
例祭 うら盆の八月二十三日
小池福岡町内会
これを見ると女性と子供がほとんどです。またよく見ると有名な武将の妻も含まれています。例えば菅沼定盈(すがぬま さだみつ)は後に徳川家康に仕えて野田城主になり、30倍の武田信玄含む武田軍を約1ヶ月足止めした人物です。その奥さんですね。
そして奥平九八郎貞能(さだよし)は定能ともいい、長篠設楽原の戦いで長篠城を守りきった奥平信昌の父です。その妻ということは奥平信昌の母がこの時に処刑されたということですね。
詳しい書籍
私が今回紹介した豊橋市富本町の十三本塚に興味を持ったのは、長篠城址史跡保存館で販売されている、戦国 人質物語を読んだからです。この中に十三本塚の話があって、昭和の頃の現地調査から有識者への聞き込みなどが詳しく記載されています。
日本100名城にも認定されている新城市の長篠城にある資料館です。城巡りの時に購入するのも良いですが、遠方の方は通販も行っていますので、気になる方は是非、チェックしてみてください。
私の感想
私の豊橋市十三本塚と福岡地蔵尊の感想ですが、郷土史レベルの戦国史で奥が深いと思いました。令和五年(2023)に放送されたNHK大河ドラマ・どうする家康でも、チラッと紹介された豊橋市十三本塚と福岡地蔵尊ですが、今後も地元の歴史に興味をもつ人が増えてくれればと思います。