今川義元に自害させられた戸部新左衛門の墓がある豊橋市橋良墓地

豊橋市柱九番町には尾張・戸部城主だった戸部新左衛門(とべしんざえもん)の墓があります。戸部新左衛門とは誰なのか?そしてなぜ豊橋市柱九番町の橋良墓地に墓があるのか?簡単にまとめてみました。

■橋良共同墓地の住所■

豊橋市柱九番町96

>>橋良共同墓地の地図

戦国時代の豪傑

戸部新左衛門は尾張・戸部城主(現・名古屋市南区)だった武将です。かなりの豪傑で尾張の織田信秀(信長の父)に仕えていました。しかし信秀の死後、家督を継いだ息子の信長は、まわりからうつけ(愚か者)といわれ始めます。

織田家の家臣だった戸部新左衛門でしたが、同時に村をいくつか持っていた領主でもあり、このまま織田家に仕えていれば滅ぶと判断したのか、尾張に侵攻したがっていた駿河(静岡県)の今川義元に寝返ってしまいます。

怒った信長でしたが、戸部新左衛門は強く、あまり合戦したくない相手です。そこでニセ手紙作戦を考えます。戸部新左衛門が織田家に再び仕えたいと書いた手紙を今川義元に届けさせました。それを信じた今川義元は激怒!戸部新左衛門に駿府(静岡市)に来るように命じましたが、途中の吉田(豊橋市)で殺してしまいます。そして遺骸を橋良村の龍拈寺領に埋葬したのです。

そして墓

その墓が豊橋市柱九番町の橋良共同墓地にあります。よく見るとキレイな墓碑でまだ新しそうです。改修されたのでしょう。正面をよく見ると…

『戸部』の文字がありました。これが戸部城主・戸部新左衛門の墓です。私の感想ですが、これも戦国時代に亡くなった豪傑の墓だと思うと、尾張との繋がりを感じます。

また補足ですが、戸部新左衛門が亡くなった後、今川義元が本格的に尾張に侵攻してきて桶狭間の戦いが起きます。結果、今川軍が破れますが、もし豪傑の戸部新左衛門が生きていたなら、桶狭間の戦いの結果も変わっていたのかもしれません。

戸部城はすでに無く、戸部城の石碑が戸部神社(名古屋市南区)に移転されています。名古屋市の城郭研究者や郷土史家には戸部新左衛門は結構、有名な武将なのですが、豊橋市の東三河ではあまり知られていません。これから戸部新左衛門と戸部城の繋がりが広まるとよいですね。

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