豊橋市仁連木町の二連木城址は戦国時代初期に渥美半島に勢力を広げた戸田宗光が築いた城です。東三河侵出を目論む今川、武田にも攻められた歴史があります。二連木城址は現在、大口公園と豊橋市仁連木老人福祉センターになっていますが、高低差をはじめ曲輪、堀や土塁が色濃くのこっており見どころが多い城跡です。
■二連木城址の住所■
豊橋市仁連木町136−2
まずは高低差
二連木城址でまず気付くのが高低差。周辺を含め北側に向かって下がっています。この下がりきった場所には朝倉川があり川に向かう台地の先端みたいな場所にあったのでしょう。
今度は逆に朝倉川から登って来ると二連木城址の大口公園はさらに高い場所にあることが分かります。
大口公園と同じ二連木城内と考えられる豊橋市仁連木老人福祉センターも周辺より高くなっています。現在では周辺には高い建物が建っていますが、もしそれらが無かった場合、かなり遠くまで見渡せた立地だと思います。
そして城
大口公園内に二連木城址の説明看板があります。
二連木城は明応二年(1493)に田原を本拠とした戸田宗光によって築城されました。戸田氏はさらに上野(豊田市)の出身で、知多半島の河和(こうわ:知多郡美浜町)に進出し、そこから三河湾を越えて大津(おおつ:豊橋市老津町)、さらに田原に入り、三河湾の制海権を握る大勢力へと成長しました。そして東三河平野部への進出を目指して築いたのが二連木城でした。
その後、戸田氏は田原の宗家(一族のリーダー家)と二連木戸田氏とに分かれ、宗家が今川氏に滅ぼされた後、二連木戸田氏は今川氏・徳川氏に仕えました。天正十八年(1590)の徳川家康の関東移封に従い、城主戸田康長は武蔵国深谷(埼玉県深谷市)1万石の城主になり、城は廃城になりました。
二連木城址は主要部が大口公園となり、土塁や堀などの遺構の一部が現存しています。遺構の多くは失われ、堀は埋没していますが、江戸時代の城跡を描いた浅野文庫蔵諸国古城之図(あさのぶんこしょこくこじょうのず)「三河渥美 仁連木」によれば、公園にあたるところは本丸と二の丸の二つの曲輪となっていました。現在の東部老人福祉センターがあるところは東から東南側に広がる大きな曲輪の一部で、この曲輪に伴う堀が近年の発掘調査によって見つかっています。このほか、公園の東南側にある稲荷神社も土塁の一部が残されています。
以上のように二連木城址は市街地にありながら遺構の一部が残り、優れた歴史的背景を持つ本市を代表する城址のひとつです。
二連木城関連年表
平安時代 付近が伊勢神宮領となり薑御薗(はじかみの みその)が置かれる
明応二年(1493) 戸田宗光が東三河平野部の支配を意図して築城
天文十年(1541) 戸田宣光が改めて二連木城に入城する(二連木戸田氏)
元亀二年(1571) 武田信玄の吉田城攻めで占拠される
天正三年(1575) 長篠城から南下した武田勝頼の攻撃を受ける
天正十八年(1590) 城主・戸田康長が徳川家康の関東移封に従い廃城となる
これは現地看板にある現況図。老人福祉センターと稲荷神社も城域です。
浅野文庫蔵諸国古城之図に描かれた二連木城。本丸が大口公園。老人福祉センターと稲荷神社が右側の曲輪(二の丸?)でしょう。上に描かれている大きな川は北を流れる現在の朝倉川です。
東部老人福祉センター近くから出土した堀跡。浅野文庫蔵諸国古城之図では水堀に囲まれていたようなので、水堀の跡でしょうか。
公園内に残る土塁。廃城になって数百年経過していますが、今でもハッキリと分かります。
これは私個人の感想ですが、大口公園を東部老人福祉センターの間にある遊歩道は堀跡の遺構に見えます?その理由はここだけ低くなっており、曲輪を区画する堀跡を遊歩道として活用したのでは?と思います。浅野文庫蔵諸国古城之図にも曲輪を区画する堀が描かれています。
外も要チェック!
大口公園だけではなく、南の稲荷神社までが城域でした。まずは稲荷神社も老人福祉センターと同じように周辺から高い場所にあります。
ポイントは稲荷神社内の土塁跡。これも二連木城の曲輪を区画する土塁です。今でも残っているのがスゴいですね。
これは近くの民家にある土塁跡。稲荷神社の土塁から直線上にあるのでおそらくこれも二連木城の土塁ではないかなと思います。
所要時間と私の感想
二連木城の所要時間は公園、周辺、稲荷神社なので20分のあれば十分ですが、最初に行った時は北側の朝倉川まで下ってそこから城址まで登ったりしていたので1時間近くかかった記憶があります。
私の二連木城址の感想ですが、周辺をジックリ巡ると遺構や高低差を楽しむことができる城だと思いました。車で訪れるなら吉田城など近くの城とセットで訪れるのも良いでしょう。