名古屋市熱田区新尾頭1丁目の住吉神社は平安時代の武将・尾頭義次(源義次)の城があった場所といわれています。この人物はこの周辺の尾頭(おとう)という地名の由来にもなっているのです。
尾頭義次(源義次)とは
保元元年(1156)に朝廷で後白河天皇(ごしらかわてんのう)方と崇徳上皇方(すとくじょうこう)が衝突した保元の乱(ほうげんのらん)が起こりますが、これに敗れた源為朝(みなもとのためとも)は伊豆大島に流罪になります。そこで出来た子が源義次です。
尾頭の姓の由来ですが、義次が産まれた時に蛇が首に巻き、頭と尾を後ろに垂れていたことから「尾頭」を名乗ったといわれています。
義次は土御門天皇(つちみかどてんのう)の命で、紀伊国(和歌山県)で勢力を持っていた盗賊・鬼党を退治し、その功績で尾張国古渡一帯の領地与えられ、現在の住吉神社あたりに館(城)を構えたといわれています。ちなみにこの時に朝廷から「鬼頭」の姓も与えられました。もしかすると名古屋市とその周辺に昔から住んでいる鬼頭さんは、尾頭義次の子孫なのかもしれません。
その後、義次の館(城)があった周辺一帯、つまり義次の領地は尾頭の地名が付きました。江戸時代にはここに架けられた橋が尾頭橋となり、現在でも尾頭町の地名が残っています。
そして城
その尾頭義次(源義次)の城跡は現在、住吉神社になっています。まず立地ですが東の名古屋台地の方が高く、西の堀川に向かって低くなっています。
スマホアプリ古地図散歩 時代を重ねるマップの色別標高図を使いで尾頭城周辺の高低差を確認してみます。すると西に向けて大きく下がってます。熱田台地のヘリに築かれていました。
堀川は昔からこの地を流れていた川ではなく、名古屋城の築城が始まった慶長十五年(1610)から人工的に掘られた川です。一説によると、もともとここに小川があり、それを大幅に拡張したのが現在の堀川だとか。ちなみに堀川開削総奉行(責任者)は愛知県あま市出身で賤ヶ岳七本槍のひとり、福島正則です。
そして対岸
堀川の対岸から尾頭城址の住吉神社を見ると高い場所にあることがわかります。堀川が無かった時代でも名古屋台地の縁(へり)に築かれており、この高低差が防御の要だったわけです。
私の尾頭城址の感想ですが、遺構は残っていなくても城の守りである高低差を楽しめると思いました。またJR尾頭橋駅の駅名の由来は、尾頭義次、尾頭城ということが分かりましたので、地名にも歴史を感じます。