なぜ慧可断臂図は常滑市斎年寺に伝わったのか?知多大野城主佐治氏とのつながり

常滑市大野町の斎年寺(さいねんじ)は、知多大野城主・佐治氏の菩提寺です。ここには雪舟の水墨画・慧可断臂図(えかだんぴず)が伝わり、それが現在では国宝になって、京都国立博物館に移されています。※斎年寺に慧可断臂図はなく、写真パネルの展示です。

慧可断臂図とは何?

慧可断臂図(えかだんぴず)とは、室町時代に活躍した水墨画家で禅僧(画僧)の雪舟(せっしゅう)が書いた水墨画です。私も学生の頃、社会もしくは美術の教科書か何かで見た記憶があります。雪舟の作品は慧可断臂図を含む6点が国宝に指定されています。

>>これが慧可断臂図 | 京都国立博物館公式サイト

 【Q】慧可断臂図はどんなシーン?

伝説によれば西暦378~528頃、インドから中国を訪れた達磨大師は梁の武帝に面会後、嵩山少林寺で壁に向かって9年間座禅を組む「面壁九年」と呼ばれる座禅修行に入る。そこに神光(しんこう)という若い僧が訪れ、達磨大師に弟子入りを願うが何度も無視された。ある冬の雪の日、神光は自らの意志と覚悟を示すために刀で左腕を切断。達磨大師はこれを受け「達磨安心」と呼ばれる禅問答をし、神光に慧可(えか)という名を授け弟子にして自分の全てを伝えた。

なぜ斎年寺に伝わった?理由は?

慧可断臂図は佐治家二代当主・佐治為定(さじ ためさだ)が父・宗貞の菩提を弔うために父の三回忌である享禄五年(1532)に斎年寺に寄進したものと伝わっています。ではなぜ佐治氏が慧可断臂図を入手できたのか?この理由はハッキリしていません。これは私の仮説ですが、当時、知多大野城主の佐治氏は大野湊(おおのみなと)という、今でいう貿易港を支配しており、経済力も高く遠方からの品々も入手しやすかったのでしょう。

そこで雪舟の見事な水墨画を入手し、佐治家の菩提寺である斎年寺に寄贈したという流れではないでしょうか?ただまさか数百年後に国の宝になるとは、当時思っていなかったでしょうけれど。

常滑市の斎年寺は、私が所属している愛知県の歴史を学ぶ会でも訪れたことがありました。そこで参加者の感想ですが、教科書(参考書)にも出ているダルマさんの水墨画の出元の寺ということで驚きの声が多かったです。

ちなみにそんな慧可断臂図ですが現在、京都国立博物館内で管理されており斉年寺にはレプリカパネルしかありません。その京都国立博物館では度々、特別展や企画展で他の雪舟の作品とともに慧可断臂図を見学することができます。

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