常滑(とこなめ)市に残る常滑城址は緒川城(東浦町)の水野氏の一族である常滑水野氏の居城跡です。
【現地案内看板より】
初代城主・忠綱公は大和監物(名不詳)を二代城主にして隠居し頭を丸め僧となり城の西端に庵をたて、恩師天沢院の住職の位牌を祀ると共に伊勢湾を航行する船の監視を兼ねていたと思われる。
豊臣時代に廃城となった後も住民は水野家三代の遺徳を偲んで庵を地蔵堂(正法寺)として今日まで守り続けて来たのである。
まずは周辺
常滑城の地形を国土地理院の地図で見てみると、独立した丘陵地にあることがわかります。西側(左側)はかつての海で現在は埋め立てられています。
常滑城西側からの高低差。ここから見ると崖の上にありますね。
常滑城の眼下を通る常滑街道。江戸時代に整備された街道で名古屋~師崎(もろざき:南知多町)を結んでいます。江戸時代の街道ですが戦国時代にも、もとになる街道がありそれを押さえていたのが常滑城だったのでしょう。
近くには市場の地名が残っています。城下町がこのあたりにあったのでしょうか?
そして城
常滑城内の曲輪と考えられる場所には石碑と案内看板がありました。
現地案内看板にあった古地図。これを見ると細長い縄張りだったことがわかります。北が上なので左が西ですね。周辺には民家がチラホラあります。
曲輪内の正法寺。案内看板によると常滑城が廃城になった後、近くの住人たちにより城跡に建立された地蔵堂が起源になっているとのこと。水野氏を偲んで建てられたものなので領民に慕われていた城主だったのでしょう。
城内から西を見ると伊勢湾です。埋め立てられた地が続いていますがよく見ると中部国際空港(セントレア)も見えます。この眼下に常滑街道が通り伊勢湾を航行する船も監視できていた。まさに交通の要所です。
信長と禁窯令
常滑は焼き物に適した土が採掘される地で、常滑焼が発展しました。水野氏が常滑に進出した理由のひとつに焼き物で財を成すことがあったのでしょう。
しかし天正二年(1574)織田信長により禁窯令(きんようれい)が出されます。わかりやすくいうと常滑で焼き物の生産を縮小しろ!ということです。その理由は瀬戸焼(愛知県瀬戸市)を保護するためだったといわれています。
これにより常滑水野氏は衰退し信長を恨むようになり、本能寺の変で明智光秀側に付きましたが、山崎の戦い後、城を没収され常滑水野氏は滅亡したといわれますが…
この説に対し赤羽一郎氏(考古学:日本陶磁史)は信長は瀬戸焼風の焼き物を生産することを禁じただけで、常滑焼を禁止したわけではなかったと主張しています。その理由が以下です。
●天正期に生産されたと考えられる常滑焼が中世城館跡などから多く出土していること
●瀬戸焼と競合していたのは美濃焼で常滑焼は対象にならないこと
●日本各地の発掘調査によっても天正初期の極端な生産減少を認めることはできない
私の感想
常滑城は地形と高低差、街道や地名が楽しめる城でした。また信長の禁窯令など歴史にも深く繋がる城なので、焼き物の歴史に興味がある方も一度訪れてみるのもオススメだと思います。