徳川家康を桶狭間合戦と伊賀越えで助けた常滑市大野町の東龍寺

常滑市大野町の巌松山 東龍寺は戦国時代に徳川家康を2度助けた寺です。家康のピンチを語るうえでも重要な東龍寺。その詳細をチェックしてみます。

■東龍寺の住所■

常滑市大野町8丁目

>>東龍寺の場所の地図

現地説明看板

 徳川家康と東龍寺

 東龍寺の歴史は貞観元年(864)に始まる。当初は天台宗を宗派としたが、永享年間(1429~41)に浄土宗に改宗した。東龍寺を有名にしたのは、永禄三年(1560)桶狭間の戦いで、当時今川に属した家康は大高城から急ぎ船で大野へ逃亡、東龍寺を頼ったとする記録が残る。

 今川に勝利した織田信長は、海運や鍛冶が盛んな大野を重視、大野城主三代佐治八郎信方へ妹の於犬を嫁し関係を強化。その際、東龍寺にも年四十石の朱印状を与え保護した。天正十年(1582)本能寺の変が起こる。当時堺にいた家康一行は伊賀越えでを経て三重白子から船で伊勢湾を横断し大野に到着、再び東龍寺を頼った。当時の住職は九代洞山祖誕上人で家康の従兄弟に当たる。上人は家康の要望で近隣の豪商薬屋市左衛門と協力し百五十両の軍資金を用立て岡崎への帰還を助けた。

 慶長五年(1600)関ヶ原の戦後、家康はこの両名を伏見城に招き歓待し、東龍寺には年四十石の朱印状を与え、薬屋市左衛門には借財の返済、宝物、商権を与えた。東龍寺への朱印状は十四代将軍家茂の代まで続くが、特に家康・秀忠・家光三代はその原本が残る。他に家康母の於大が洞山上人に下賜した若き頃の家康のめずらしい肖像画等多数現存する。(千賀哲朗 記)

令和五年 株式会社三菱UFJ銀行 半田支店 寄贈

この看板の補足ですが、三重白子(しろこ)は現在の鈴鹿市です。

伊賀越え上陸地って他にあるよね?

ここで戦国史に詳しい方ならピンと来たと思いますが、徳川家康の伊賀越え上陸地は常滑市だけではなく複数あります。どれが本当なのか?これは長年議論されてきましたが、令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康でうまくまとめられていました。わかりやすく説明すると、徳川家康らは複数のグループに分かれて三河を目指したのでルートも複数残ったという説。

ではなぜ1つではなく分散して伊賀越えをしたのかという理由ですが、襲われる被害を分散した、もっと端的にいうと、家康が殺される確立を低くしたということです。だから複数ルートが残り、そのうちのひとつが常滑市の東龍寺です。

私の感想

私の東龍寺の感想ですが、徳川家康を2回助けた寺ということで、歴史的に見て重要だと思いました。ひとつ残念なのが、説明看板にもあった家康ゆかりの寺宝の品々は一般非公開とのこと。いつかどこかの資料館や美術館で東龍寺展みたいな形で公開してもらえると嬉しいです。

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