知多郡阿久比町の宮津城址(柳審城址)は、水野信元に滅ぼされた新海氏の居城跡です。現在は秋葉神社と宮津公園になっています。
■宮津城址(柳審城址)の住所■
阿久比町宮津宮上ノ山3
尾張の織田と同盟を結んだ緒川城の水野信元は、知多半島に勢力を拡大し始めます。そこで現在の阿久比町宮津を拠点としていた土豪・新海氏は水野に従うことなく交戦します。
新海氏に関する資料は少なく、分かっていることは蒙古襲来後の弘安九年(1286)頃、新海淳英によって宮津城が築かれましたとこ。そして新海氏九代・淳尚の代である天文十二年(1543)に緒川城の水野信元によって攻め滅ぼされたことくらいです。
現在は神社と公園
そんな宮津城は現在、秋葉神社と宮津公園になっています。現地には阿久比町教育委員会が立てた秋葉神社の説明板がありますが、ここに宮津城(柳審城)の記載がありました。
秋葉神社近くのヤブの中には削平地がいくつかあります。城跡でこういう平(たいら)な区画を見ると曲輪に見えてくるから不思議です。
秋葉神社神社がある高台を本丸とすれば宮津公園の場所が二之丸でしょうか。数メートルの高低差がなんとなく城跡を想わせます。
宮津城址の南~西にかけては住宅地になっており、かつての集落、つまり城下町や村があったのではと想像できます。周辺の木々が無ければグルっと見渡せたのでしょう。
私の感想
私の宮津城址(柳審城址)の感想ですが、シンプルな縄張りですが周辺から独立した高台で、中世の土豪の城の雰囲気が残ってると思います。また新海氏に関して資料、記録が少ないのは滅んだからと思われます。これは郷土史によくあることで、土豪つまり地域の有力者は滅んで子孫が途絶えると記録がプツっと無くなるからです。
ただ宮津城址(柳審城址)周辺には新海姓の家もチラホラあり、秋葉山の寄進者の碑を見てみるとここにもチラホラと新海さんの名前が記載されています。子孫かどうか分かりませんが、宮津に根付いている名字なのでしょう。