半田市有楽町に戦国時代に攻防があった砦と城があります。それが成岩砦と成岩城です。
どんな城と砦?
現在の東浦町を拠点に知多半島統一を目論んでいた水野信元は、阿久比の新海氏を滅ぼし、久松氏と同盟を結ぶなど影響力を増し、南下を続け現在の半田市周辺の制圧に乗り出します。そこで対峙したのが僧だった榎本了圓(えのもと りょうえん)です。
榎本了圓(えのもと りょうえん:了円とも)は、もと常滑市の金蓮寺(時宗)の僧といわれており、成岩村の人々に推されて成岩城を築き、城主になりました。また別の説によると南下する水野軍に対応するために榎本了圓が城主に推されて、村人たちや宗徒を率いて水野軍と戦う大将になったとも。ただ、これ以上のことは分かっておらず、謎が多い人物です。
成岩砦と成岩城の位置関係
東浦から南下する水野軍は成岩城を攻撃するために神戸川(ごうどがわ)対岸に成岩砦を築き、榎本了圓率いる成岩城と対峙します。現在の神戸川は細い二級河川ですが、戦国時代当時の川幅はもっと広かったと考えられています。
水野軍の猛攻をよく防いだ成岩城の榎本軍でしたが、城内から内通者が出て火を放たれ、それが原因で落城。了圓はこの戦いで討死したといい、成岩城はその後、水野氏の支配下になりました。
成岩砦
それでは現地を見ていきましょう。まずは水野信元が築いた成岩砦。現在は鳳出観音教会という寺院になっています。
■成岩砦址の住所■
半田市有楽町2丁目34
これは南側(神戸川:ごうどがわ)からの写真。高台にあることが分かります。また東を通る県道も南(つまり神戸川)に向けて下がっています。
こちらは成岩砦の北側。堀と思いきや隣の成岩神社よりも高いので、ここだけ独立した高台という感じがします。
成岩城址
神戸川を挟んで南側に成岩城址があります。にじいろ保育園花園の駐車場脇に石碑があります。以前はもう少し東南側の畑前にあったのですが、ここも城域と考えれば間違いないと思います。ちなみに石碑の書は犬山城主成瀬家10代当主・成瀬正雄氏によるもの。また城跡付近はかつては城の上、城のこし、と呼ばれ、近くには西馬場、東馬場(馬の訓練場か)という地名も残っていたと伝わります。
成岩城址周辺は畑地と住宅地になっています。開発が進んで城の遺構は残っていません。
あえていうなら東側(県道247側)から見ると、成岩城址の石碑がある辺りの土地は高くなっています。ただすぐ近くを名鉄河和線が通っていますし、住宅地造成でどれくらい元の地盤が削られたのかは謎ですが…
成岩城地元の伝承
成岩城にはいくつかの伝承が残っています。
●城跡付近で刀の目貫きを拾った人がいたが、急に原因不明の病で亡くなった。
●城址からは旧暦のお盆7月14日前後の子の刻~丑の刻(午前零時~午前2時)に刀や槍の擦れ合う金属音と共に馬の蹄の音、いななきが聞こえたことがあった。
こういった伝承が残っている理由は、成岩城攻めが激しく、この地域に残した影響も強いからだと思います。
私の感想
私の半田市成岩砦跡と成岩城跡の感想ですが、遺構は残っていないものの、興味深く巡ることができました。その理由は郷土史レベルの合戦、城攻めの歴史が残るからです。地元くらいじゃないと地名や土地勘が分からないと思いますが、現地に立つと高低差や地形を実感できます。これも史跡巡り、城巡りの楽しみのひとつです。