松平元康(徳川家康)が渡った半田市岩滑西橋(お殿橋)

半田市岩滑西橋(通称:お殿橋)は、桶狭間の戦いの後、松平元康(徳川家康)が渡った橋といわています。この事から江戸時代には尾張藩が資材を提供して修復し、欄干の付いた立派な橋が作られました。

■岩滑西橋の場所の住所■

半田市岩滑高山町一丁目地内

>>岩滑西橋の場所の地図

半田市と知多郡阿久比町の境に流れる矢勝川に架かる岩滑西橋は現在では鉄筋コンクリート造りになっていますが、かつてはここに家康の威厳を示す橋があったといわれています。

これが看板

家康公ゆかりの橋

半田市岩滑地区と知多郡阿久比町植地区を結ぶ岩滑西橋は、かつて『お殿橋』と呼ばれていました。 言い伝えでは、桶狭間の戦い(1560)の後、今川方の武将だった徳川家康(当時は松平元康)は、生母於大の再嫁先である坂部城(阿久比町坂部)の久松家に身を寄せた後、この辺りで矢勝川を渡り、岩滑城に立ち寄ったといいます。

当時の岩滑城主、中山勝時は於大の妹を妻としており、家康の叔父にあたりました。その後、家康は従兄弟が住職をしていた常楽寺(半田市成岩)を経て、無事、松平家の居城の岡崎城へ戻っています。

江戸時代には、家康公ゆかりの橋として大切にされました。文政六年(1823)と天保十一年(1840)に修復した際は、尾張藩が資材を提供したといい、寒村には珍しく欄干までついた立派な橋でした。

※お殿橋については、わからない事が多く、異説もあります。

これを最初に読んだ時の私の感想は、郷土史にはいろんな説が残り、今後議論が進められると思いました。その理由は松平元康は桶狭間の戦いで敗れた後に大樹寺に入っていますが、その時の経由地が矢作川(やはぎがわ:岡崎市)を渡っているというのが定説になっているからです。

このことから岩滑西橋(お殿橋)の伝承が考えられるのは以下の通り

  • 影武者がここから岡崎城へ向かった。
  • 桶狭間ではなく伊賀越えの時だった。
  • 桶狭間の前、阿久比城の母を訪ねた時だった。

など。

戦場や城から逃走する時は別働隊(影武者)を別ルートから行かせます。そうすることにより少人数になり迅速に行動できますし、追ってを惑わすこともできる。

また伊賀越えの時も知多半島経由で岡崎に戻っていますし、桶狭間合戦の前に母である於大の方に会いに阿久比城に立ち寄っているからです。

まあ、この3つの説はあくまで私の仮説ですが、自分なりに推理してみるのも歴史の面白さだと思います。

昭和50年頃の写真

現地案内看板には昭和50年前後(推定)の写真があります。これを見てみると、木造の橋でしょうか?かなり荒れていて渡れない様子がわかります。

すぐ近くの岩滑城

この岩滑西橋は現在の半田市と知多郡阿久比町の境に流れる矢勝川に架かっていますが、その矢勝川をかつて天然の堀にしていたのが岩滑城です。現在は常福院になっていますが、高低差や山号、そして当時から残るソテツなど、城巡りでも楽しむことができます。

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