大久保彦左衛門忠教(ただたか)と聞けば天下の御意見番というイメージですが、なぜこの人物が天下のご意見番なのか?その理由は彼の頑固な性格にあります。大久保彦左衛門は実在した人物ですが、庶民に人気があり江戸時代に講談や歌舞伎の題材にもなりました。逸話も多く、その中でも有名なのが大坂の陣でのやり取りです。
真田信繁の猛攻
元和元年(1615)の大坂夏の陣は圧倒的な兵力の徳川軍と少数の豊臣軍の戦いでした。徳川家康も3日で合戦は終わると言い切り、兵糧も3日分しか用意せず、自信満々で合戦に挑みます。しかし豊臣軍の抵抗は意外に強く、なんと敵の武将・真田信繁(幸村)は家康本陣に突撃します。
あまりの凄まじさに家康の家臣達は逃げてしまい、家康の馬印(うまじるし:自軍のトレードマーク)は倒されて混乱に陥ります。家康も『もはやこれまで』と自殺を覚悟しましたが、援軍が来てくれて真田軍を退け、家康は助かりました。
『旗は立っておりました』
戦後、合戦の反省会みたいな会議があり、家康は『本陣の旗が倒されたのは情けない!』と家臣たちを叱り飛ばしました。しかしその時、旗奉行だった大久保彦左衛門は、『旗は倒れておりません』と言い張り、家康を口論になりましたが、あまりに彦左衛門が言い張るので家康も諦めます。ここから天下の御意見番と呼ばれる様になったとか。
私の感想
この他にも魚屋・一心太助(いっしんたすけ)とのやり取りや、盥(たらい)に乗って登城したなど、脚色された逸話が多い大久保彦左衛門。
おそらくは江戸時代、徳川幕府に対する庶民の反骨心というか、幕府に面と向かって反抗できない庶民のキモチを大久保彦左衛門に反映させたのではないか?と思います。信憑性はともかく、江戸時代には人気があった大久保彦左衛門忠教です。