尾張四観音(おわりしかんのん)とは、徳川家康が名古屋城を築城した時、名古屋城から見て鬼門の方角にある尾張国の代表的な四つの観音寺を鎮護としたものです。それが以下の4つの寺です。
・荒子観音(名古屋市中川区)
・甚目寺観音(あま市)
・龍泉寺観音(名古屋市守山区)
・笠寺観音(名古屋市南区)
これらの寺は開祖から1千年以上経つ古刹で、名古屋城築城以前の戦国時代もその地にありました。だからそれぞれの寺に戦国エピソードが残っています。
大須観音は四観音ではない?
大須観音は名古屋城が築城された時、美濃国(現在の岐阜県)から現在地に移転された寺であり、四観音ではありません。
この記事では、尾張四観音の寺院の場所を地図で説明するほか、それぞれの戦国エピソードをチェックしてみましょう。
荒子観音
名古屋市中川区の荒子観音は加賀百万石の祖・前田家の菩提寺です。荒子観音から南に約350mほどのところに、前田利家の生誕地説がある荒子城跡があります。また天正四年(1576)に前田利家により本堂が再建されており、この時、利家は自分の甲冑も寄贈しています。
■荒子観音の住所
名古屋市中川区荒子町宮窓129番地
甚目寺観音
尾張四観音の筆頭ともいわれる甚目寺観音は戦国武将で大名の福島正則の逸話で有名です。福島正則は現在の愛知県あま市(旧美和町)の出身で甚目寺観音はよもや地元なのです。
まず福島正則が11歳の時、甚目寺観音堂の復旧工事があり、周辺の村から作業員(人夫)が集められたのですが、その時に誤って人を危め(つまり殺人)してしまい、遠くの駿河まで逃げるという事がありました。
もうひとつ福島正則ネタがあります。それは福島正則が清洲城主になった時、甚目寺観音に仁王像を建立しているのです。これについては、仁王像の解体修理の時、墨書が発見されて裏付け資料になっています。もしかすると11歳の時、人殺した償いというか、その時の謝罪の意味もあるのかもしれません。
■甚目寺観音の住所
あま市甚目寺東門前24
龍泉寺観音
龍泉寺観音は織田信長の弟・織田信行(信勝)が寺を城に改造した歴史があります。(信長公記)。また本能寺の変後、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉が一時的に本陣を置いた場所でもあるのです。
あと龍泉寺観音は矢田川を挟んで北側(もしくは北西側)からみると良いです。なぜかというと、矢田川を挟んで断崖絶壁の上に建つ城という事が分かるから。戦国時代、2度城や陣を置かれた理由が、この方向からだとよく分かると思います。
■龍泉寺観音の住所
名古屋市守山区竜泉寺1丁目
笠寺観音
名古屋市南区の笠寺観音は、徳川家康が幼少の頃(竹千代時代)、尾張の織田信広(信長の兄)と人質交換をされた場所です。現に笠寺観音境内には、松平竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換の石像が建っています。
■笠寺観音の住所
名古屋市南区笠寺町上新町83
これが笠寺観音に建つ人質交換之地石像。織田信長の兄・織田信広を松平竹千代(後の徳川家康)の石像があります。
私の感想
私の感想ですが、尾張四観音巡りは、恵方巻きだけではなく、戦国エピソードがあるので戦国時代が好きな人にもオススメだと思いました。また各寺院とも御朱印があるので、尾張四観音の御朱印を集めるのも良いですね。