名古屋市中村区の稲葉地城跡は、織田信秀の弟で織田信長の叔父だった津田豊後守信光(織田信光)の居城跡です。現地の石碑には津田豊後守と記載がありますが、これは若き頃の織田信長を支えた叔父・織田信光です。信光はこの稲葉地城のほか、那古野城(名古屋市中区)、守山城(名古屋市守山区)の城主でもありました。
■稲葉地城跡の場所の住所■
名古屋市中村区城屋敷町4丁目
現地看板
稲葉地城は、このあたりにあり、築城年代は諸説あるため定かではない。『尾張志』によれば、東西四十間(約73メートル)、南北五十六間(約102メートル)の城館であった。
城主は津田豊後守(織田信長の伯父に当たる人)であり、玄蕃允(げんばのじょう)、興三郎、小藤次と続いた。興三郎は永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、小藤次は天正十年(1582)の本能寺の変で戦死した。
神明社の南西に位置する凌雲寺に、豊後守の法名を記した宝篋印塔がある。
名古屋市教育委員会
城跡の現状
稲葉地城は現在、中村区城屋敷町4丁目の神明社になっており、神社の入り口に稲葉地城跡の石碑があります。その側面を見ると、織田伯父津田豊後守居城と刻まれています。ちなみに彼は織田信秀の弟なので、信長から見ると父の弟です。だから正しくは伯父ではなく叔父です。※父・母の兄や姉は「伯父」、「伯母」。父母の弟や妹は「叔父」、「叔母」
神明社の鳥居横にある石には稲葉地村古城主 津田豊後守城跡之石と刻まれています。城のどこかで使われていた石なのでしょうか。また稲葉地城の遺構は残っていないのですが、神明社周辺に城屋敷という地名が残っています。土豪の屋敷だった場所、つまり館城の跡地に城屋敷という地名が付く例は他にもあり、この地名が城跡を偲ばせています。
織田信光の墓所・凌雲寺
神明社の道を挟んだすぐ隣にある凌雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院で織田信光の墓所です。また若き日の織田信長がこの凌雲寺で手習い(勉強)をしたという言い伝えが残ります。
■凌雲寺の場所の住所
名古屋市中村区稲葉地本通3丁目
集慶山(しゅうけいざん)と号し、臨済宗妙心寺派永正年中(1504~21)稲葉地城主津田豊後守(織田信長の伯父に当たる人)の創建で、南溟紹化(なんめい しょうか)和尚を開祖とする。
織田信長が幼少のころ、この寺で手習いをしたと伝えられている。墓地の宝篋印塔には、『前豊州太守泰翁玄凌雲定門天文五年丙申十月廿八日』(1536)とあり、豊前守のものであることが知られる。
名古屋市教育委員会
津田豊後守(織田信光)の墓碑は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で後ろの石碑には以下のように刻まれています。
凌雲寺殿 前豊州 大守 泰翁凌公 大居士
りょううんじでん ぜんほうしゅう たいしゅ たいおうりょうこう だいこじ
石碑の裏には天文五年十月廿八日寂 津田玄蕃建立と刻まれています。
私の感想
私の感想ですが、織田信光(津田豊後守)は、信長公記をはじめ、織田信長を取り上げたドラマや小説などの作品にたびたび出るので、彼の城跡と墓所は興味深いものがありました。堀や土塁など城跡の遺構は残っていませんが、立派な石碑が建立してあるだけでも、城巡りの時には嬉しいです。