兼松正吉が織田信長から拝領した足半が秀吉清正記念館にある!

名古屋市中村区の秀吉清正記念館は、常設展と企画展2つの展示が行われています。ここに兼松正吉が織田信長から拝領した足半(あしなか)が収蔵されています。

>>秀吉清正記念館行公式サイト

兼松正吉とは?

兼松正吉(かねまつ まさよし)とは葉栗郡島村(現在の愛知県一宮市島村)を拠点としていた尾張の在地武士です。はじめ織田信長に仕え、馬廻(うままわり:直属の親衛隊)をつとめました。天正元年(1573)の朝倉義景勢追撃の時に、はだしで駆け回って戦功をあげ、信長から足半(あしなか)を与えられた話は信長公記に記載があります。

その後は織田信雄、豊臣秀吉、秀次、徳川家康、松平忠吉、徳川義直と、歴代の天下人と尾張統治者に仕えました。また多くの合戦に参加して功績をあげ、自身の存在を主君たちに強く記憶させます。

なぜ足半をもらったの?

兼松正吉が信長から拝領した足半については信長公記に記載があります。

ところで信長はいつも足半を腰に付けていた。このたび利根坂の合戦で、兼松正吉は武者一騎を山中に追いかけ、ついに討ち取って、首を持ってきた。その時、正吉ははだしで、足は血で赤く染まっていた。信長はそれを見て、日頃から腰に付けていた足半を、『こういう時に役に立つのだ』といって正吉に与えた。正吉にとって誠にありがたいこと、名誉なことであった。

これがその足半

そしてこれが織田信長が兼松正吉に与えた足半です。正吉のご子孫の方が秀吉清正記念館に寄贈され、名古屋市指定文化財になっています。

足半(あしなか)とはカカトが無い草履のこと。足の裏と密着して、足の指とカカトが地面につきます。滑り止めが効き、スパイクの役目を果たし、軽くて走りやすいため、鎌倉時代、室町時代には武士から好まれました。正吉は合戦に出る度に、この足半を刀に掛けて、離さなかったといいます。兼松家の家宝として代々大切に伝えられました。

ここで大事なポイントは、この足半は織田信長の足に合わせてあるということ。褒美用に持ってきたものではなく、自分のマイ足半として予備のためにもってきたものを正吉に与えたのです。つまり信長が履く予定だった足半なのです。

注意事項と私の感想

今回紹介した兼松正吉が織田信長から拝領した足半ですが、いつも展示してあるわけではありません。年に数回、何かの企画展とかで見ることが出来ます。だからいつでも見れると思い行ってみると無かった!ということにならないよう、事前に公式サイトからチェックしておくことをおすすめします。

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