名古屋市中川区の荒子東公園は、戦国武将の池田恒興の父・池田恒利(いけだつねとし)の屋敷があった場所といわれています。通称・池田屋敷
※恒利の読みは つねとし
■荒子東公園の住所■
名古屋市中川区吉良町178−4
池田恒興の子・輝政は現在の国宝・姫路城天守を築いた人物で、輝政から見ると恒利は祖父、つまりおじいちゃんにあたる人物です。その恒利の屋敷は堀と土塁に囲まれた城といわれています。現在の池田恒利屋敷跡周辺はどうなっているのかをチェックしてみましょう。
公園内の看板
池田恒利の屋敷に関する看板が公園内に立っています。スマホやiPhoneだと読みにくいかもしれませんので、看板の内容を記載しておきます。
この公園は、荒子町、吉良町、小城町にわたり位置している。
荒子の歴史
江戸時代の古地図によると、このあたりは荒子村小城といわれ、池田恒利の屋敷があったと伝えられている。 恒利の子・恒興(1536~84)は、前田利家とともに戦国武将として信長、秀吉に仕え、数々の武勲をあげた。
世界遺産として名高い国宝姫路城は、恒興の子・輝政(1564~1613)が築いた。
中川土木事務所
旧街道もある
池田恒利の屋敷跡近くを横切る様に旧桑名街道が通っています。桑名街道は一色街道ともいわれ、下之一色(しものいっしき)から名古屋へ向かう道でした。昭和の頃まで使われていた街道で魚の行商人がよく利用していたとか。
池田恒興の生誕地?
池田恒興の父・恒利の屋敷ということで、池田恒興が生まれた場所、つまり生誕地なのか?という疑問ですが、その点に関して言えば確証はありません。
池田恒興の生誕地に関しては、出身地は尾張国、美濃国、摂津国、近江国など諸説あります。ただ織田信長の一代記である信長公記には、恒興の与力(よりき:サポート役)として尾張国海東郡一色村の者おり、その場所がちょうどこの付近です。
また父である利恒は将軍・足利義晴に仕えた事があり、享禄年間(1528~32)に辞して、尾張国に閑居したといわれています。おそらくその時の屋敷がここなのでしょう。そして天文五年(1536)に恒興が生まれていますから、もしかするとこの場所が池田恒興の生誕地、つまり出身地という可能性もあるのです。
私の感想
私の荒子東公園(池田屋敷跡)の感想ですが、当時を偲ぶものは何も残っておらず、看板だけが歴史を語っているので、所要時間は数分で終わると思います。だから近くにある荒子観音や荒子城跡とセットで巡るのがオススメです。