安城合戦の戦死者を弔った富士塚、東条塚、千人塚の場所と現地レビュー

安城市には安城合戦で亡くなった方を弔った3つの塚が残されています。それが富士塚、東条塚、千人塚です。これらの塚は安祥城近くにあり、名鉄・南安城駅から歩いて訪れることができます。

■3塚の地図■

安城合戦とは何?

戦国時代、尾張の織田と三河の松平は仲が悪く、天文九年(1540)~十八年(49)の10年間にかけて安祥城(安城市)を奪い合う衝突が何度か起きました。これを安城合戦といいます。

合戦は3回とも4回とも。その中で多くの方が亡くなりました。その方たちを弔った塚が合計で13でき十三塚といわれ、このうち今回紹介するのが3つの塚である富士塚、東条塚、千人塚です。

十三塚

東条塚、千人塚、堀平十郎塚、大道塚、鏡塚、玄塚、古見塚、姫塚、恋塚、貴人塚、金蔵塚、富士塚、大胴塚

富士塚

富士塚は安城市浜富町の安城コロナワールドの前にあります。

>>藤塚の場所の地図

市指定史跡 富士塚

 岡崎城主の松平広忠(徳川家康の父)と尾張の織田信秀(信長の父)との間で、天文9年(1540)から同18年(1549)の10年間にわたり、大きく3度、安城城(安祥城址 市指定史跡)を奪い合う戦いが繰り広げられました。この一連の戦いは、安城合戦(安城城争奪戦)と呼ばれています。

 天文9年6月6日、織田信秀の軍勢は安城城を攻撃しました。松平勢は城を出て戦いましたが、城主を務めていた松平長家(広忠の曽祖父の弟)をはじめ、松平信康(広忠の弟)、松平康忠(東条松平)、松平利長(藤井松平)など多数が戦死するとともに、城は織田勢に奪われることになりました(第1次安城合戦)。

 この戦いは激戦となり、松平・織田ともに多数の戦死者を出したと伝えれれています。こうした戦死者を弔った塚のなかで、最も大きかったのがこの富士塚です。第1次合戦の塚としては、他に東条塚(市指定史跡)、千人塚などがあり、同様の塚をあわせて十三塚と呼ばれています。また、織田勢の攻撃で、大岡白山神社が焼失しました。(後に家康により再建され、本殿は市指定建造物となっています)。

 塚の上に立つ十一面観音像は、昭和15年(1940)に、この時の戦死者の慰霊のために設置されました。現在でも、戦いのあった6月6日には、供養が続けられています。

安城市教育委員会

東条塚

東条塚は安城市安城町にあります。

>>東条塚の場所の地図

市指定史跡 東条塚

 安城城(安祥城)をめぐる攻防戦の舞台となった古戦場のひとつです。1540年(天分九)六月、尾張の織田信秀が安城城を攻撃しました。北方より押し寄せた織田信秀と、城から繰り出して戦ったという松平軍が戦った主戦場は、安城城北方面であったと考えられています。安城城の城代・松平長家(安城佐馬助:さまのすけ)は、この戦いで多くの家臣とともに戦死しました。

 この戦を含めた幾度かの攻防戦の死者を弔い、十三の塚が築かれました。この東条塚は、戦の応援にかけつけた東条松平(西尾市吉良町)の康忠(松平康忠のこと)が戦死した場所に築かれた塚であると伝わえれています。

安城市教育委員会

千人塚

千人塚は東条塚と道を挟んだ向かいの墓地にあります。こちらは看板はありません。

>>千人塚の場所の地図

千人塚を詠んだ句が塚の前に建ってます。

松風の 琴に月澄む 塚の秋 (まつかぜの ことにつきすむ つかのあき) 仙風舎柳月 

私の安城に残る富士塚、東条塚、千人塚の感想ですが、現在までよく残ったと思います。その理由は周辺は住宅地や商業地区として開発されているからです。またかなり多くの方が安城合戦で亡くなったことも実感できます。

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