愛知県安城市の安城歴史博物館周辺は、かつて織田と松平氏・今川氏が争奪戦を繰り広げた安祥城跡です。
諸説あるのですが、この織田、徳川・今川の争奪戦は5度も行われ、その度に多くの方が無くなったのですが、有名な人物も討ち死しています。それが本多忠勝の祖父と父です。
江戸時代に2人の墓が討ち死に場所といわれるところに建立されました。
ではその墓はどこにあるのか?安祥城に行った時に城巡りとセットにできるのでチェックしてみましょう。
本多忠豊の墓碑の場所
本多忠豊(ほんだ ただとよ)は本多忠勝の祖父で、天文十四年(1545)第三回目の安祥合戦で敗走する松平広忠(家康の父)を逃がすため、殿軍を務めて討死したといわれています。墓碑は討ち死にしたと考えられる場所に建立してあります。
この墓碑は江戸時代に建てられたものなので供養塔に近いのでしょう。
本多忠高の墓碑の場所
忠豊の長男・忠高は本多忠勝の父で、この人も第3回目の安祥合戦で討ち死にしています。亡くなったと思われる場所に墓碑が建立してありますが、安祥城のすぐ側です。
墓は岡崎市の妙源寺
2人の墓碑を供養塔と書いたのは、墓は別の場所にあるからです。それが岡崎市の妙源寺。ここには本多忠豊、忠高の墓の他に安藤直次、高木清秀の墓もあります。
2人は城主
あと忘れがちなのが本多忠豊、忠高は城持ち豪族です。それが岡崎市岩津町に残る西蔵前城跡。ここで本多忠勝も生まれていると考えられ、本多平八郎忠勝誕生地の石碑も建立されています。
私の感想
私の感想ですが、この本多忠豊、本多忠高の墓碑は安祥城に行った時にセットで巡ることをオススメします。その理由は近くにあるからです。
また相次いで祖父と父を亡くした忠勝は、元服の時に『戦に出てもただ、かつ(勝つ)のみであってほしい』という願いから付けられた名前という事が、岡崎市教育委員会の看板に書いてありました。
本多忠勝が好きな人もぜひ、訪れてみてください。