安祥城近くの本多忠高(忠勝の父)と忠豊(忠勝の祖父)の墓碑の場所と地図

愛知県安城市の安城歴史博物館周辺は、かつて織田と松平・今川が争奪戦を繰り広げた安祥城跡です。諸説ありますが、この織田、松平・今川の争奪戦は5度も行われ、その度に多くの将兵が無くなったのですが、有名な人物も討ち死しています。それが本多忠勝の祖父と父です。

江戸時代に2人の墓が討ち死に場所といわれるところに建立されました。ではその墓はどこにあるのか?安祥城に行った時に城巡りとセットにできるのでチェックしてみましょう。

本多忠豊の墓碑の場所

本多忠豊(ほんだ ただとよ)は本多忠勝の祖父で、天文十四年(1545)第三回目の安祥合戦で敗走する松平広忠(家康の父)を逃がすため、殿軍(しんがり)を務めて討死したといわれています。墓碑は討ち死にしたと考えられる場所に建立してあります。

>>本多忠豊墓碑の場所の地図

 市指定史跡 本多忠豊墓碑

 第三次安城合戦の古戦場です。1544年(天文十三年)九月、安祥城は織田氏に占拠され、織田信広が城将になりました。松平広忠は安城城を奪回するために1545(天分十四年)九月、上条西で交戦。広忠は敗れて岡崎に逃れましたが、本多忠豊はここでふみとどまり奮戦したのち戦死しました。その場所に、1974年(寛政六年)墓碑が建てられました。

 安城市教育委員会

この墓碑は江戸時代に建てられたものなので供養塔に近いのでしょう。

本多忠高の墓碑の場所

 市指定史跡 本多忠高墓碑

 天文九年(1540)尾張の織田信秀(織田信長の父)が、安城城(安祥城)を奪い取ります。その後、天文十八年(1549)までの約10年間、安城城争奪戦、いわゆる『安城合戦』が繰り返されました。

 天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)が没しました。同年、今川・松平軍は太原崇孚(たいげん そうふ)雪斎を総大将とし、織田軍が占領する安城城を攻撃しました(第3次安城合戦)。先鋒となった松平軍の主将・本多忠高(本多忠勝の父)は、安城城代・織田信広(信長の兄)に追い迫りましたが、城の本丸近くまで深入りしたため、この場所で敵の矢に当たり戦死しました。

 寛政九年(1797)、岡崎藩主・本多忠顕(ただあき)により、忠高は戦死した地に墓碑が建てられました。さらに同十一年(1799)、妙源寺(岡崎市)に葬られていた忠高の遺骨を安城に改葬したとされます。

 忠高は天分十四年(1545)の安城清畷(せいなわて)の合戦(第2次安城合戦)で戦死した本多忠豊の嫡子であり、本多父子の墓は徳川に功績があった者だけに許される大亀の墓碑をもちいて築かれ、大学頭林衡(だいがくのかみ はやしたいら)の撰文で顕彰されています。忠豊の墓碑は、安城町赤塚の住宅地の中に建てられています。

安城市教育委員会

忠豊の長男・忠高は本多忠勝の父で、この人も第3回目の安祥合戦で討ち死にしています。亡くなったと思われる場所に墓碑が建立してありますが、安祥城のすぐ側です。

>>本多忠高の墓碑の地図

墓は岡崎市の妙源寺

2人の墓碑を供養塔と書いたのは、墓は別の場所にあるからです。それが岡崎市の妙源寺。ここには本多忠豊、忠高の墓の他に安藤直次、高木清秀の墓もあります。

>>妙源寺の場所の地図

2人は城主

あと忘れがちなのが本多忠豊、忠高は城持ち豪族です。居城は岡崎市西蔵前城。ここで本多忠勝も生まれていると考えられ、本多平八郎忠勝誕生地の石碑も建立されています。

>>西蔵前城の詳細レビュー

私の感想

私の感想ですが、この本多忠豊、本多忠高の墓碑は安祥城に行った時にセットで巡ることをオススメします。その理由は近くにあるからです。また相次いで祖父と父を亡くした忠勝は、元服の時に『戦に出てもただ、かつ(勝つ)のみであってほしい』という願いから付けられた名前という事が、岡崎市教育委員会の看板に書いてありました。本多忠勝が好きな人もぜひ、訪れてみてください。

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