本多忠勝生誕地は岡崎市西蔵前城址。元服と亡くなった時の逸話

徳川四天王のひとりに数えられる本多忠勝は天文十七年(1548)、三河・西蔵前城(にしくらまえじょう)で生まれました。現在は城址の遺構は残っていませんが、民家の庭先に本多忠勝誕生地の石碑と岡崎市教育委員会の案内看板が建っています。アクセス方法ですが、駐車場が無いので名鉄バス・東蔵前駅で降りてそこからは徒歩で移動します。所要時間は5分程です。

>>本多忠勝誕生地(西蔵前城址)の地図

本多忠勝の父・本多忠高、祖父・本多忠豊は松平氏に仕え、共に安祥城で織田軍と戦い討ち死にしています。忠勝は幼名を鍋之助といい、元服する時、祖父や父みたいに合戦で討死してほしくない、合戦に出ても『ただ勝つのみ』という願いを込めて忠勝と名付けられたという逸話が残ります。これに関しては岡崎市教育委員会の指定文化財の案内板にも記載してあります。

また晩年には桑名城主(三重県桑名市)となりますが、ここで亡くなる時の有名な逸話が次のオハナシです。忠勝は徳川家康に従い、関ケ原合戦など生涯五十数回の合戦に出陣しましたが、傷ひとつ負いませんでした。

しかし晩年、持ち物に小刀で名前を彫っていた時、手元が狂い左手にかすり傷を負ってしまいました。この時忠勝は『私も傷を負うとは…もう終わりだな』呟き、数日後に亡くなりました。墓は桑名市の浄土寺にあります。

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