源義経と浄瑠璃姫の話は本当?岡崎市成就院に残る浄瑠璃姫伝説と墓

岡崎市成就院(じょうじゅいん)は平安時代末期の浄瑠璃姫の墓がある寺院です。

■成就院の住所■

岡崎市吹矢町96

>>成就院の場所の地図

浄瑠璃姫伝説とは

浄瑠璃姫伝説とは平安時代末期の話。源義経(みなもとのよしつね)と浄瑠璃姫(じょうるりひめ)が出会い惹かれあうものの、揺れ動く時代の中で、悲恋の結末となるストーリー。

この物語は、独特な節回しで語られながら広まり、芸能の『浄瑠璃』のもととなりました。江戸時代には人形劇として流行し、現在は日本の代表的な伝統芸能の一つ『人形浄瑠璃文楽』として、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。

物語の舞台となった岡崎には、姫や義経にまつわるお寺や史跡、地名や仏像などが点在している一方で、長い歴史の中で真相は謎に包まれ、数々の伝説が生まれました。現在でも、物語と現実が入り混じる時空を超えた壮大な歴史ミステリーとして、多くの人を魅了しています。

内容は次の通り

時は平安時代の終わり頃、矢作の宿、三河国の国司であった兼高長者の夫婦のもとに、浄瑠璃姫という美しい姫がいました。

姫16歳の、承安四年(1174)春、源義経は京都から奥州平泉(おうしゅう ひらいずみ:岩手県西磐井郡平泉町)へと向かう旅の道中、矢作の宿を訪れました。ふと姫の奏でる琴の調べが聞こえ、都を懐かしく思った義経は、琴の音に合わせて手持ちの笛『薄墨(うすずみ)』を吹きました。それがきっかけとなり、二人は惹かれ合う仲となりました。

数日後、奥州へと旅立った義経は、静岡の吹上の浜で瀕死の大病を患います。姫は義経の守り神のお告げに導かれて助けに行き、再会を喜び合うものの、奥州を目指す義経は別れを偲んで再び旅立つのです。矢作へ戻った姫は、平家盛んな世に源氏の味方とあっては身が危ないと考えた親に勘当され、庵に幽閉されてしまいます。義経との再会を心の支えにして過ごしましたが、ついに悲嘆に暮れて、菅生川(すごうがわ:現在の乙川)に身を投じてしまいます。

その後、義経は姫がすでにこの世にいないと知り、供養のための墓所を訪れます。すると供養塔の五輪塔が砕け、姫の魂が飛び出し天に昇って成仏したとのことです。

そして墓

浄瑠璃姫と源義経の話は伝説なのですけれど、成就院墓地には浄瑠璃姫の墓もあります。

案内の石塔は新しいものの、墓は古いです。3つありまして、中央の石塔が浄瑠璃姫の墓だと思います。

入水したのはこの辺り?

成就院の北側には菅生川(乙川)が流れています。浄瑠璃姫はこの辺で入水したのでしょうか?私の感想ですが伝説ではあるものの、徳川家康ゆかりの岡崎市に源平時代の話が残っているのは興味深かったです。名鉄・東岡崎駅から見ると岡崎城とは逆ですが、ここも岡崎城とセットで訪れることができそうです。

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