岡崎市宮地町の糟目犬頭(かすめけんとう)神社は、徳川家康の家臣で岡崎三奉行のひとり、本多作左衛門重次の生誕地といわれている場所です。
本多重次といえば、一筆啓上火の用心で始まる日本一短い手紙でも有名ですね。そんな重次は徳川家康と同じ、現在の愛知県岡崎市の生まれなのです。
では生誕地はどうなっているのかレビューしてみます。
■糟目犬頭神社の場所の住所■
岡崎市宮地町馬場31
糟目犬頭神社建立の由来
この神社が建立されるキッカケになった由来は貞和二年(1346)のこと。上和田城主・宇都宮泰藤がこの神社周辺で鷹狩りをしていました。大木のふもとで休憩中にうたた寝をしていると、木の上から大蛇が泰藤を飲み込もうと大きな口を開けていたのです。
その時、白犬が激しく吠えて泰藤を起こそうとしますが、泰藤は白犬に眠ろうとしていたところを邪魔されたと思い、白犬の首を刀で刎ねてしまいます。すると白犬の首は大蛇に噛みつき、大蛇を噛み殺してしまいます。自分を助けようとした白犬を殺してしまった泰藤は大いに後悔し、白犬の首をこの神社に埋葬したのでこの名前が付いたということです。
※ちなみにこの時、泰藤は白犬の首と共にしっぽまで刎ねてしまい、その尻尾は飛んでいき落ちた場所が下和田町の犬尾神社という伝承があります。
石碑の場所
本多作左衛門重次の生誕地の石碑の場所は、神社本殿の向かって右方向です。本多作左エ門重次誕生地之碑(原文ママ)と刻まれています。
重次の父・本多重正の居城(屋敷)は額田郡大平村(現在の岡崎市大平町)にありましたが、重次は母の実家である、三河国宮地の犬頭神社で享禄二年(1529)に生まれたといわれています。
白犬の墓
本多重次の石碑の隣りにある小さな祠は、泰藤を助けた白犬の首を埋めた場所といわれています。また一説によると白犬ではなく、新田義貞の首を埋めた塚とも。
江戸時代の鳥居と狛犬
糟目犬頭神社でチェックしておきたいのが鳥居です。これは慶長十年(1605)に岡崎藩主だった本多豊後守康重(ほんだぶんごのかみやすしげ)が寄進したものです。この鳥居の特徴は越前(福井県)の足羽山(あすわやま)で産出された笏谷石(しゃくだにいし)で造られています。
上部の笠木、島木の部分の石材は笏谷石ではなく別のものです。補修されてますね。
もとの笠木、島木の部分は鳥居のすぐ横にありました。
もうひとつ本多豊後守康重が笏谷石(しゃくだにいし)で奉納したものがあります。狛犬です。この狛犬は社殿の中からしかみることができないので、今回拝見できませんでした。本殿の前に写真つきの説明があります。
一筆啓上の石碑の場所
糟目犬頭神社の近くにセットで巡りたいスポットがあります。それが六ツ美西部小学校前の六ツ美西部学区市民ホームにある、本多重次の一筆啓上の石碑です。
■本多重次の一筆啓上の石碑の住所■
岡崎市赤渋町道本23−1
日本一短い手紙といわれるこの文は、天正三年(1575)年に起きた織田徳川連合軍と武田軍が戦った、長篠合戦の時、出陣していた本多重次が妻に宛てた手紙です。相手に伝えたい要点だけ書かれている単純明快な文章で、現代の手紙の指導書などで、要点を分かりやすく、しかも気持ち(やさしさ)も伝わる文章の見本として紹介されています。
私の感想
本多重次の生誕地は私が講師を務める愛知ウォーキング城巡りクラブの戦国史跡巡りでも訪れました。その時の参加者の感想というか意見として、本多重次は日本一短い手紙の著者として福井県の丸岡城で有名ですが、生まれは現在の愛知県岡崎市というのは知らなかったというのが多かったです。
私の岡崎市糟目犬頭神社の感想ですが、『一筆啓上…』の石碑は糟目犬頭神社から約1.5km、車での所要時間は約5分くらいなので、神社とこの石碑はセットで巡ると良いと思います。