徳川家康生誕地の愛知県岡崎市には岡崎城がありますが、そこから西に約870m離れた場所にまるや八丁味噌という、延元二年(1337)創業の味噌蔵があります。
ここには戦国時代の豊臣秀吉ゆかりの遺構があるのです。それが日吉丸石投の井戸。
豊臣秀吉といえば、現在の名古屋市の生まれですが、なぜ徳川家康ゆかりの岡崎市にライバルだった秀吉の遺構があるのか?それは秀吉の子供の頃にさかのぼります。
蜂須賀小六との出会い
豊臣秀吉は子供の頃、日吉(ひよし)といい、織田信長に仕えるまで各地を放浪していたといわれています。
ある夜、矢作橋で野宿していたら蜂須賀小六(正勝)と出会い、仲間になるのですが、盗賊だった小六から『初めての手柄を見せよ』といわれ、まるや八丁味噌に忍び込みます。
しかし蔵の中を物色していた時に見つかってしまい、逃げることにしました。そこで一計を案じ、大きな石を井戸の中に投げたのです。
すると蔵人達は、盗みに入った盗賊が井戸に落ちたと思い、皆、井戸の周りに集まって中を覗きこんでいました。
そのスキに日吉は無事に逃げたという事です。
私の感想
この話を聞いて調べてみると、当時、矢作橋にはまだ橋が架かっておらず、蜂須賀小六も盗賊ではなく、また2人もこの地で出会った訳ではありませんでした。
しかし徳川家康生誕地の岡崎でなぜ秀吉の伝承があるのかというと、おそらく庶民レベルでは秀吉の人気が高かったためと思います。
また小六との出会いは矢作橋ではなかったにしても、秀吉は織田信長に仕えるまで、どこで何をしていたかよく分かっていません。
だから小六関係なしで、秀吉が蔵から逃げる逸話があったのかもしれませんね。
このまるや八丁味噌は、一般の工場見学も受け付けています。岡崎城近くなので、セットで巡るのも良いですね。