名古屋市西区の東雲寺は、織田信長の傅役だった平手政秀の首塚のほか、津田信之夫婦の墓、織田常寛の碑が残る臨済宗の寺院です。
寺伝によると洞雲寺のルーツは至徳元年(1384)に創建された長興寺が始まりで、明応元年(1492)に小田井城主・織田常寛が東雲寺として開基となり、美濃国瑞竜寺より慈済禅師を講じて開山しました。
■東雲寺の住所■
名古屋市西区中小田井1丁目331
平手政秀の首塚
平手政秀は織田信長の傅役(もりやく:教育係のこと)だった人物で、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)と信長の婚姻をまとめました。
若い頃の信長は【うつけ】(バカ者)と呼ばれるくらい奇妙な行動が多く、傅役だった政秀は、そんな信長を諌めるために自害したとも言われています。
墓は名古屋市千種区の平和公園にありますが、首塚は東雲寺にあるんです。
津田信之夫婦の墓
津田信之は初代尾張藩主・徳川義直と二代・光友に仕えた尾張藩士で津田貫流(かんりゅう)槍術の創始者で知られる人物です。
また小田井織田氏(織田藤左衛門家)の子孫で織田木瓜(おだもっこう)の家紋を使っていました。
織田常寛の碑
東雲寺の開祖・織田常寛(つねとお:つねひろ)の碑です。常寛は戦国時代初期、尾張下四郡を治めていた守護代で織田大和守家当主・織田敏定の弟といわれる人物です。小田井城主、清洲城主にもなってます。
孫・信張(のぶはる)の代になると同族の織田信長に仕えるようになります。信長公記の記載によると、弘治二年2年(1556)7月、信長主催の盆踊りで信張の家来衆が地蔵に扮しており、信長に近い家臣だった様です。
私の感想
私の感想ですが、東雲寺は小田井城主の織田家と深い関わりを持った寺院と感じました。また平手政秀は信長の傅役として有名な武将でもあるので、西区の城址や史跡とセットで訪れるのも良いですね。