名古屋市北区平手町に志賀公園がありますが、その一部はかつて織田信長の傅役(もりやく:教育係)だった平手政秀の志賀城址です。
■志賀城の住所■
名古屋市北区平手町2丁目
現地看板
平手政秀宅跡
ここ志賀の地を領した平手政秀は、織田信秀の子、信長の補佐役をつとめた。信長はかねてから行状が悪く、政秀は日ごろからこれをいさめていたが、父信秀の死後も一向に改まらなかった。天文二十二年(1553)正月十三日、信長の将来を絶望した政秀は、この地で自害した。信長はその死を哀惜し、一寺を建て、秀政寺と号して厚く菩提を弔った。
名古屋市教育委員会
平手政秀は信長が成人した時に4人の家老が付けられたのですが、その2番家老です。また斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)と信長の婚姻を取りまとめたのも平手政秀といわれています。娘・お清(雲仙院)は信長弟の織田長益(有楽斎)の正室になっています。
館城とは
これは蜂須賀家政生誕の地といわれる江南市宮後城址の現地看板にある館城(やかたじろ)の様子です。館城とは領主の館周辺を掘と土塁で取り囲んだもの。平手政秀の志賀城もこの様な館城だったのではないかと思われます。志賀城址の所要時間は約5分。
私の感想ですが、志賀城址は遺構などは残っていませんが、尾張時代の織田信長を語る時に必ずといっていいほど出てくる武将の居城跡でもあるので、場所と現地はチェックしておくとよいです。