織田信長と弟の信行が合戦!名古屋市西区の稲生原古戦場と名塚砦跡

織田信長が家督を継いで間もない頃、弟の織田信行(信勝)と戦った事がありました。それが弘治二年(1556)に起こった稲生原(いのうがはら)の戦いです。その時、信長方によって築かれたのが名塚砦(なづかとりで)です。

■稲生原古戦場の住所■

名古屋市西区名塚町1丁目124

>>稲生原古戦場の地図

■名塚砦の住所

名古屋市西区名塚町4丁目

>>名塚砦の地図

『うつけ』を認めない家臣団

織田信秀が流行病で亡くなり、信長が織田家の家督を継いだのは天文二十年(1551)ですが、当時の信長は素行が悪く、『うつけ(愚か者の意味)』と呼ばれ、家臣団の信頼を得ていませんでした。

そんな中、信長に織田家は任せられないと、家老の林秀貞(通勝)と弟の林美作守、そして柴田勝家らが話し合い、信長の弟・信行を織田家当主にしようという動きがありました。この3人の動きはウワサとなり、信長の耳にも届きます。

暗殺されかけた信長

織田信長の一代記・信長公記(しんちょうこうき)にこの時、織田信長が暗殺されかけた事が記載されています。

ある日、信長は弟・信時と2人で林秀貞のところへ向かいます。秀貞の弟・林美作守は、『絶好の機会なので、信長を暗殺しましょう!』と秀貞に提案しました。しかし秀貞は、『三代にわたり御恩を受けた主君を恥知らずにもここで手掛けて暗殺するとは天罰が恐ろしい。どうせそのうち御迷惑なことをしでかすのだから、今は切腹させないでおこう』といって、信長の命を助け帰しました。

とりあえずこの時は信長を暗殺しなかった林秀貞でしたが、その後、信長に対して敵対の旗を鮮明にします。この時、秀貞に味方したのが、荒子城(名古屋市中川区)の前田氏。そして米野城の中川弥兵衛と大秋城の大秋十郎左衛門(共に名古屋市中村区)も秀貞に味方して、街道を遮断するなど、信長に敵対します。

さらに信行は信長の直轄領だった篠木三郷(しのきさんごう:春日井市)を奪い取るなど、敵対心をあらわにします。

当然、信長は反発!信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、これ以上信行の侵攻を広げないために於多井川(現在の庄内川)付近の名塚という場所に砦を築きます。これが名塚砦です。これにより現在の名古屋市西区名塚町一帯で、稲生原で合戦が起こりました。

そして合戦!まずは信長VS勝家

信長公記によると、信行方は柴田勝家と林美作守が兵1000人で出陣。対する信長方は約700人で迎え撃ちます。かなりの乱戦だったらしく、柴田勝家は負傷し、林美作守は信長に討たれ、結果、信長方が勝利します。

戦後のオシオキ!

合戦後、信行方は那古野城、末森城に籠城を余儀なくされ、信長は両城に攻め込み城近くまで城下町を焼き払うなどジリジリ攻めます。これに対し信行方は対抗できませんでした。

この時、信長と信行の母である土田御前は、信行と共に末森城に住んでおり、土田御前の使者として村井貞勝、島田秀満の2名を信長のもとに派遣し、信行の謝罪を伝えました。また林秀貞についても、以前に信長暗殺を中止して命を助けたことから許し、今までとおり織田家家老として信長に仕える事になりました。

名塚砦

そんな稲生原の戦いでしたが、現在でも信長方の拠点だった、名塚砦跡が残っています。名古屋市西区名塚町4丁目にある白山神社がその跡で、現在では名古屋市教育委員会の案内看板も建っています。

 名塚城(砦)跡

 織田信長が父信秀の跡を継いだころの有力な家臣で那古野城主(現在の名古屋城二の丸付近)林通勝やその弟光春、および柴田勝家らに謀反の動きがあった。信長は弘治二年(1556)八月二二日、急いでこの地に砦を築かせ、佐久間盛重に守らせた。二日後には、稲生(いのう:西区)で信長本隊と勝家が戦い、信長はこれに勝利した。

 織田一族の内紛を治めた信長は、以後尾張の支配権を確立していくこととなった。

 名古屋市教育委員会

稲生原古戦場

そして稲生原(いのうがはら)古戦場跡は、名塚砦の近く名古屋市西区名塚町1丁目あたりです。信長公記に記載されている内容ですと、両軍合わせて約1700名が戦った合戦だったので、この庚申塚周辺の広い範囲が古戦場という事ですね。ここにも名古屋市教育委員会の案内看板が建っています。

 稲生原(いのうがはら)古戦場跡

 織田家の家臣・柴田勝家、林光春らは末森城にいた織田信行を擁立し、清須の兄・信長を討とうとして、弘治二年(1556)八月二十四日、この地で戦いを挑んだが、清須側の勝利となった。勝利した信長は尾張の統一に大きく踏み出した。

 ここにある庚申塚(こうしんづか)は、この合戦の死者を祀ったものといわれるが、本来は庚申信仰の名残でもある。

 名古屋市教育委員会

そして庚申塚と供養塔

公園内には、稲生原の戦いで亡くなった人達を供養する、お堂や供養塔も建てられています。現在この場所は、名古屋の都心部にも近く、マンションやらビルが立ち並んでいますが、かつては於多井川(庄内川)近くの広い野原だったのでしょう。この合戦に勝利した信長は、尾張統一に向けて大きく前進します。桶狭間合戦の4年前の出来事です。

私の感想

私の名塚砦、稲生原古戦場の感想ですが、ここも信長の尾張時代の史跡という事で、チェックしておきたい場所だと思います。なぜかというと、後に全国区となる信長には見られない歴史が残っているからです。

・弟の信行との戦い

・柴田勝家が信長に敵対していた

・家老の林秀貞も信長に敵対していた

など。信長は信包や有楽斎といった弟たちを比較的大事にしていますが、この信行だけは相性が悪かった様に思えますね。または信長は仲良くしたかったのかもしれませんが、母や家臣団の反信長勢力により、信行と戦わざるをえず決別してしまったのかもしれない。そんな複雑な想いが稲生原合戦にあったのかもしれません。

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