名古屋市西区児玉3丁目の丹羽長秀邸址は、織田信長に仕えた戦国武将・丹羽長秀(五郎左衛門)の生誕地といわれる場所です。
■丹羽長秀邸址の住所■
名古屋市西区児玉3丁目13-40
なぜ米五郎左?
丹羽長秀は尾張国守護である斯波氏の家臣・丹羽長政の次男として、天文四年(1535)に現在の名古屋市西区)に生まれます。ちなみにあまり知られていませんが、長秀は5人兄弟の次男で、男は兄・長忠、弟・秀重がおり、妹が2人います。
15歳で信長に仕えた長秀は、信長と共に各地を転戦。稲生の戦いや桶狭間合戦、そして後の観音寺の戦いなどで名前が残っています。長秀は後世に創られた織田家四天王、織田五大将のひとりに数えられるくらいの人物で、合戦での武功はもちろん、普請奉行として安土城の築城に携わるなど、意外な功績を残しています。
当時、織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があったといわれていますが、長秀は米の様に必要な人物だったと認識されていました。
刀で目を悪くした
丹羽長秀のエピソードで、刀で目を悪くしたという、あまり知れていないオハナシがあります。信長の父・織田信秀が健在だった頃、尾張の織田氏と美濃の斎藤道三は敵対しており、一進一退の攻防を続けていましたが、ある時、織田信秀が美濃の大柿城(大垣城のこと)を落とします。
これに対し斎藤道三は近江から援軍を頼み、大垣城を攻めたたのですが、信秀家臣・千秋季光が、もと平景清が所有していた名刀・【あざ丸】を差していて討死しました。
このあざ丸を敵の美濃方であった、陰山一景が手に入れて差していたところ、合戦で矢が飛んできて、両目を失明してしまいます。その後、このあざ丸は丹羽長秀の所有となりましたが、その途端に長秀は眼病にかかってしまいます。
そこで人々が、目に禍いをもたらすあざ丸を熱田神宮に奉納する様に薦めると、長秀はすぐに熱田神宮へ奉納しました。するとすぐに目も良くなったそうです。
なお長秀は天正十年(1582)の武田家滅亡後、信長より休暇をもらい、草津温泉で湯治したという記録が残るほか、死因は寸白(すばく:条虫または回虫などの人体の寄生虫)といわれており、体調不良や健康に関するエピソードが残る武将です。
ここも城址
そんな長秀の生誕地といわれる場所が、現在の名古屋市西区児玉3丁目なのですが、戦国武将の館(邸)址という事で、城郭研究では【城】として認識されています。
城というと、名古屋城みたいに天守があり、石垣があり、水堀があると思いがですが、あれは江戸時代近くになってからできる近世城郭というものなんです。
当時の戦国武将は、主君に仕える家臣として認識されていますが、それと同時に村をいくつか支配しており、そこから年貢を徴収していた、いわば【小領主】でもありました。
長秀の丹羽氏も、尾張時代にはこの周辺にあったいくつかの村を所有しており、そこから年貢を徴収していた小領主でした。
そしてわかりやすく言うと、そういった尾張国の小領主をたくさん束ねていたのが斯波氏、そして後には織田氏だったという事です。
私の感想
私の感想ですが、今ではこの丹羽長秀邸がどんな館だったのか?遺構も残っていないので詳細は分かりませんが、この周辺は平地が広がっていたので、周辺を堀と土塁で囲んだ、いわば、防御度の高い館だったのではと思っています。今では空き地に石碑が建っているだけですが、尾張時代の長秀を偲ぶ事ができる史跡のひとつですね。