名古屋市北区の田幡城址は織田家の重臣・林秀貞一族の居城

名古屋市北区にある名古屋市立金城小学校は田幡城跡に建っています。田幡城とは織田信長の織田家に仕えた家老・林秀貞(林道勝)の一族の城です。

>>田幡城址の場所の地図

美濃の斎藤軍も来た城

桶狭間合戦の6年前の天文二十三年(1554)、知多半島に進出した今川軍と戦うために織田信長は舅・斎藤道三に居城の那古野城を守ってくれるように依頼します。斎藤道三は安藤守就を大正に援軍を出し、田幡城付近、もしくは田幡城に入城させました。(村木砦の戦い)

信長は、敵の後方から攻める作戦で出陣しようとしたが、しかし、清洲の敵はきっと留守中に那古野へ攻め寄せるだろう、町に放火されては大変と考え、信長の舅である斎藤道三のもとへ、城番の軍勢を一隊派遣してくれるように依頼の使者を出した。

道三方からは、[天文二十三年]1月18日、那古野の留守居部隊として、安藤守就を大将に兵千人ばかり、それに田宮 甲山 安斎 熊沢 物取新五らを加え、「見聞きした状況を毎日報告せよ」と申しつけて出発させた。全員、1月20日に尾張に到着した。

信長は、留守居部隊に居城那古野の近く志賀 田幡の二郷に陣を設営させ、20日に陣取り見舞いということで自ら出かけ、安藤守就に挨拶した。

現代語訳信長公記 中川太古訳 新人物往来社より

そして城趾

田幡城があった名古屋市立金城小学校には田幡城時代の遺構は残っていません。学校内の隅に林泉寺跡という石碑がありますが、よく見ると旧田幡城趾と小さく刻んであります。

石碑の隣にある清正橋の橋。金城小学校の先生に伺ったところ、これは名古屋城が築かれた慶長十五年(1610)年頃、石垣の石を運ぶために架けられた橋の一部で、金城小学校の近くにあったものを移転したものだそうです。

城見町の地名の由来

田幡城址の金城小学校のすぐ近くに城見通(しろみどおり)、また城見町の地名が残っています。でもこれは田幡城のことではなく名古屋城のことです。現在は高層マンションが立ち並ぶ名古屋市北区城見通ですが、かつてはここから名古屋城が見えたとか。

私の感想ですが田幡城は遺構は残っていないものの、石碑や地名で城を偲ぶことができました。また歴史的にも有名な林一族の城だったので、この場所は戦国時代の土豪の勢力範囲を知るうえでも重要だと思います。

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