名古屋市中区・那古野城址は織田信秀(信長の父)が今川氏豊から奪い、自らの居城とした城です。
■那古野城址の住所■
名古屋市中区二の丸
那古野城の読みは『なごやじょう』です。ただし現在、木造天守再建計画があるの名古屋城と区別するために一部の郷土史家や城郭研究者の方は、あえて『なこのじょう』または『なごのじょう』と言う場合があります。
なぜ今川の城が尾張にあるのか?
今川氏といえば駿河、遠江の大名というイメージがあります。その今川氏の城がなぜ尾張にあるのか?その理由は今川義元の父・今川氏親の代にさかのぼります。
永正十四年(1517)、尾張守護の斯波義達(しば よしたつ)と今川氏親は遠江で戦い、今川氏が勝利します。この時、義達は今川氏の捕虜となり、尾張に送り返されるのですが、その監視と尾張侵攻のために築かれたのが那古野城です。城主は嫡子の氏豊とし、築城当時は柳丸と呼ばれていました。
ところが天文七年(1538)に織田信秀が那古野城を奪い、今川氏豊を追放。自らの城にしてしまいます。それ以後は織田家の城になったということです。
そして現地
今では名古屋城二の丸に石碑と看板が建っています。
大永年間(1521~28)に、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二の丸あたり)に築いた城で、一名『柳之丸』ともいわれ、一族の今川氏豊を城主とした。
織田信秀は、天文七年(1538)この城を奪い、ここに居するが、同十一年(1542)頃に古渡城を築城して、この城を去り、以後、嫡子信長が居城したとされている。
弘治元年(1555)織田信長が清須に移った後は、一族の織田信光がしばらくの間居城していたが、やがて廃城となった。
名古屋市教育委員会
石碑を見てみると文字が途中で消えています。これは昭和二十年(1945)の空襲で文字が消し飛んだのでこの状態なのです。かつては那古野城址と刻んであったのでしょうか?
やはり地形が大事
那古野城の遺構はよく分かっていませんが、かつての地形は分かりやすいです。那古野城(名古屋城も)は、熱田台地の先端にあり、北や西は崖になっています。つまり北や西から見ると断崖絶壁の城なのです。どこまでの規模だったのかは不明ですが、この立地も城を築く上で大事です。
織田信長生誕の城なのか?
かつて那古野城は織田信長が生まれた城、つまり信長の生誕地説がありました。しかし現在、この説は否定され、勝幡城が信長が生まれた城と考えられています。その理由は織田信秀が那古野城を奪ったと考えられるのが天文七年(1538)で、信長は天文三年(1534)にすでに生まれているからです。
私の感想
私の那古野城址の感想ですが、遺構は残っていないものの、桶狭間合戦以前の今川氏の尾張侵出の範囲がわかる史跡として貴重だと思いました。また名古屋城の中ということで、名古屋城に行った時にチェックできるポイントのひとつだと思います。
コメント
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