愛知県稲沢市と愛西市にまたがる勝幡(しょばた)城は、織田信長が生まれたといわれる城跡です。※勝幡の読みは、『しょばた』です。
■勝幡城跡の場所の住所■
稲沢市平和町城之内105
信長の生誕地については、かつて現在の名古屋城二の丸付近にあった那古野城という説もありましたが、現在では勝幡城ということになっています。
この地は【塩畑(しおばた)】といい、大中臣安長という人物の屋敷がありました。永正年間(1504~21)の頃、清洲三奉行の一家である「織田弾正忠家」当主・織田信定が尾張国の海西郡を手中に治めた際に屋敷跡に勝幡城を築城したといわれています。そんな勝幡城ですが、開発と河川工事により城跡は分断されてしまいましたが、地元の顕彰会の方々によって石碑や案内看板などが確認できます。
住宅地の中の城跡
まずは石碑と案内看板。これらがあるだけでも城巡りしている私たちにとってはありがたいですね。なぜかというと、城巡り、史跡巡りはまず石碑を目標にするからです。逆にどんなに歴史的に有名な城や戦国史跡でも石碑や看板が無いと、どこか不完全燃焼に終わるというか物足りない気がします。
勝幡城跡は三宅川、日光川にはさまれており、かつての城跡の大半は川の中なのでしょう。周辺は普通の住宅地になっていて、引っ越して間もない人は、この周辺に城跡がある事すら知らないのでしょうね。
城跡近くの橋のガードレールに張り付いている勝幡城復元図。
日本一若い信長像
勝幡城跡に来た時、城跡だけではなくセットでチェックしておきたい場所があります。それが勝幡城最寄りの駅である、名鉄勝幡駅です。
■勝幡駅の場所の住所■
愛西市勝幡町五俵入
いったいこの勝幡駅に何があるのかというと、ひとつめは信長ファミリーの銅像、そしてもうひとつは勝幡城推定復元模型です。
まずは織田信秀と妻・土田御前、そして生まれたばかりの吉法師(信長)の銅像です。説明には信長が生まれた日、つまり誕生日は天文三年(1534)5月28日とあります。
織田信長の銅像は愛知、岐阜、滋賀などでいろんなものを見かけますが、吉法師時代の銅像はたぶんここだけです。つまり日本で一番若い頃の信長の銅像という事ですね。
そして勝幡駅でもうひとつチェックしておきたいのが、勝幡城の推定復元模型です。橋のふもとにある、勝幡城復元図をジオラマ化した様な勝幡城推定復元模型です。いろんな角度から勝幡城を見る事ができます。
勝幡城址は稲沢市?愛西市?
そして今回の記事であなたが一番興味があるポイントかもしれないのは、勝幡城跡は稲沢市なのか?それとも愛西市なのか?という事だと思います。まず結果から言うと、勝幡城跡に稲沢市と愛西市の境界線ができているからどちらでも間違いではないという事。『白黒ハッキリしてほしい!』というよりも、どちらでもOK!なのです。ちなみに地図を見てみると、稲沢市(旧平和町)の方が、城跡の割合、つまり面積が多い様な気がします。
でも最寄り駅で名前がそのままの名鉄勝幡駅は愛西市です。しかも銅像と復元想定模型も愛西市。実は気付いている人もいるかもしれませんが、今回の記事はあえて稲沢市と愛西市の表記で書いています。とにかく2つの市にまたがる城跡という事を覚えておきましょう。
勝幡城の石
かつて勝幡城址近くが開発工事の時、地中から人工的に加工されたような石が出てきました。議論の結果、天守台の石もしくは建物の礎石など、よく分からんけれど、勝幡城に関連があると思われるということで、愛西市役所 佐織庁舎に伝 勝幡城の石として展示されています。
石を側面から見ると、確かに人工的に削った様な形をしています。ただこれが城の何に使われた石なのか?というのは形からよく分かりません。
私の感想
私は何度か勝幡城跡に行きましたが、ここは信長生誕地説、つまり信長がここで生まれた可能性がある場所として、信長ファンの方はチェックしておくことをオススメします。
確かに城跡には石碑と案内看板、そして勝幡城復元図くらいしか見るものは残っていませんが、勝幡駅とセットにすることによって、城巡り、史蹟巡りの満足度も高まるでしょう。最寄り駅もあるので清洲城や稲沢市の史跡とセットにするのも良いです。