愛知県稲沢市にある長束正家邸址は、豊臣五奉行のひとりだった長束正家が生まれたといわれる場所、つまり生誕地とされている場所です。現在では稲沢市長束町座守の長束梅公園に石碑が建立されています。
■長束正家邸址の場所の住所■
稲沢市長束町座守3−5
長束正家は近江国(現在の滋賀県)出身ともいわれていますが、彼が生まれた場所については諸説がありハッキリしていないんです。また【長束】という苗字も後のものであるといわれ、もともとは【大蔵】【水口】という姓だったといわれています。
生誕地など正家の前半生は不明な点が多いのですが、ハッキリしてくるのは武将としてではなく、文官として、算術の能力が極めて高かったという事です。天正十八年(1590)秀吉による小田原攻めでは兵糧奉行として兵糧の輸送で活躍し、約20万といわれている兵の兵糧を管理しました。後に文禄・慶長の役でも肥前名護屋に在陣し、兵糧奉行も務めました。
映画・のぼうの城では、石田三成と共に前線で戦っているイメージ強く表現された人物ですが、実際は後方支援で活躍した武将だったのですね。
そんな長束正家邸には現在、愛知県の石碑が建っていますが、屋敷跡の遺構などは残っておらず、周辺は住宅地と畑地が広がっています。しかし興味深いのはその立地です。地図で見ると分かりやすいのですが、長束正家邸址がある場所は、旧街道の美濃路を押さえている場所なのです。
いったい何なのか?というと、長束正家邸址は愛知県では【城跡】として研究されており、街道を押さえた城という事が分かります。ただ、この長束梅公園の場所に長束正家の屋敷があったというわけではなく、長束正家は旧長束村の出身ということです。
石碑の隣りには、長束正家についての簡単な説明と旧長束村の村絵図があります。天保年間(1830~44)の絵図なので江戸時代後期ですね。
ちなみに地元には奉賛会があり、夏祭りも行われている様です。私の感想ですが、長束正家の生誕地説は滋賀県や愛知県などにあり、未だに議論されていますが、歴史ファンとしてはそえれらの現地に行ってみて、自分なりの仮説を立ててみるのも歴史の面白さだと思います。