長島一向一揆勢が攻めた織田信興の愛西市尾張古木江城跡

愛西(あいさい)市の尾張古木江(こきえ)城跡は、織田信長の弟・織田信興(のぶおき)の居城跡です。信長公記の記載は小木江城。※信興は信与(のぶとも)とも

■古木江城跡の住所■

愛西市森川町村仲86

>>古木江城の場所の地図

>>古木江城の詳細 | ウィキペディア

織田信長には12人の兄弟がいましたが、愛知県にも弟たちの居城跡はいくつか残っています。古木江城もそのひとつですね。でも信興も古木江城もマイナーなので、ポイントをいくつか絞ってチェックしてみましょう!

信興とは

織田信興(信与)は、織田信長の4番目(もしくは5番目)の弟で、古木江城や鯏浦城(うぐいうら:現在の弥富市)を築いて、服部氏や長島の一向一揆勢に備えていました。信長の信頼も厚かった弟といわれています。

天守があった!

信興は元亀元年(1570)11月に服部氏や長島の一向一揆勢に攻められ、古木江城にに籠城します。そこで数日間耐えたものの、ついには一揆勢が城内に押し寄せてしまいます。そこで信興は一揆勢の手にかかって討たれるのは無念と思い、天守に上って切腹したと信長公記に記載があります。(記載は天主)

天守というと、この時代は岐阜城や安土城クラスの城にあるものと思いがちですが、信長公記の記載が正しいとなると、古木江城にはすでに天守があった事になります。信長公記の記載は次の通りです。

御天主へ御上り侯て織田彦七御腹めされ、是非たき題目なり。

もっと広かった

古木江城跡は現在、富岡神社となっていますが、愛西市教育委員会の案内看板には、富岡神社はこの一角に城の鎮守としてあったと考えられるとあります。つまり富岡神社に古木江城跡の石碑と看板がありますが、富岡神社の範囲=古木江城跡というワケではなく、もっと広かったのだと思います。

またかつて周辺には、子消(こきえ)、討レ(うたれ)、頭倶前(ずぐまえ)など、合戦関連と思われる地名が残っていました。

道の駅の隣

古木江城跡の川を挟んだ西側には、道の駅・立田ふれあいの里があります。

>>立田ふれあいの里公式サイト

古木江城跡の石碑と看板がある富岡神社周辺は田んぼなので、道も農道みたいに非常に狭いです。そこで私の感想ですが、車で訪れる際には道の駅駐車場を利用して、歩いて訪れるのも良いでしょう。所要時間は5分くらいです。また道の駅・立田ふれあいの里は、愛西市特産の蓮根料理や地元野菜の販売も行っていますので、古木江城跡と合わせてチェックしておきたい道の駅です。

私の感想

私の古木城跡の感想ですが、遺構はそんなに残っていないものの、郷土史レベルの城跡ということで、訪れておきたい場所だと思いました。その理由は信長公記に記載がある城ですし、信長の弟・信興の居城跡でもあるからです。

また古木江城跡前の道路を西側に行くと、すぐに三重県桑名市に出ます。近くには観光地として有名な木曽三川公園や、江戸時代に行われた薩摩藩士の治水工事ゆかりである治水神社など、史跡も点在しているので、それらとセットで巡るのも良いですね。

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