愛知県稲沢市の増田長盛邸址は、豊臣政権五奉行のひとりである増田長盛の屋敷があったとされる場所で、長盛の生誕地ともいわれています。
■増田長盛邸址の場所の住所■
愛知県稲沢市増田南町107
豊臣政権五奉行のひとりとして有名な増田長盛の出生地に関しては、現在でも2つの説があります。ひとつは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)。
そしてもうひとつが今回紹介する尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田南町)で、八幡神社の境内に増田長盛邸址の碑が立っています。
この長盛の生誕地に関しては今でも議論されており、正直、どちらが正しいのか?という歴史的な事はよく分かっていないんです。
場所をチェック!
稲沢市の増田長盛邸阯は建物の目印がほとんどありません。加納院というお寺くらいです。あと周辺は『増田…』と付く地名が多いです。増田西町、増田東町、増田南など。あと増田長盛邸阯の南を清洲街道が通ってます。
意外な武功?
増田長盛と聞くと、石田三成と同じ五奉行だったので、合戦ではろくに戦線に出ず、兵糧や武具の後方支援ばかりしていたというイメ―ジがあると思います。でも彼の活躍を調べてみると、五奉行の中でも意外な武功があるんですよ。
まず天正十二年(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、羽柴軍の先陣を務めて敵の兜首を二つ取る武功を上げ、この功績で2万石に加増されています。
そして【根来寺焼討太田責細記】という資料によると、翌年の天正十三年(1585)の紀州攻めでは、大谷吉継と共に二千兵を率いて参陣し、根来衆の津田監物、西谷延命院を倒した功により、従五位下・右衛門尉に叙任されています。
まあ、記録に残る武功はこの2つくらいですが、浅野長政はともかく、前田玄以、石田三成、長束正家らにはこういった武功が確認されないだけに、戦線でも活躍していた武将だという事が分かりますね。
ちなみにその後の文禄四年(1595年)には、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保(ひでやす)が没すると、長盛に大和国郡山城20万石の所領を与えられ、大和郡山城主となりましたが、関ヶ原の戦いで毛利輝元と共に大坂城を守備しており、それが理由で改易。そして大阪夏の陣で息子の増田盛次が長盛と共に豊臣方に味方したことで責任を問われ、最後を迎えました。
私の感想
この増田長盛邸址がある稲沢市には、同じ五奉行のひとり・長束正家邸址もあり、また北名古屋市にある霊松寺(霊松禅寺)は浅野長政の生誕地といわれています。もしこの3つが本当だとすると、かつての尾張国は豊臣政権五奉行の3人がゆかりの地という事になりますね。
私の感想ですが、歴史研究は日進月歩で、昨日までの常識が今日の非常識、今日の非常識が明日の常識という事がよくあります。
増田長盛の屋敷跡、つまり生誕地とされているこの場所も、今後の研究でどういった歴史認識になるのか分かりませんが、愛知県稲沢市にこういった史跡があるという事はチェックしておきましょう。