知立市の知立城跡は、知立神社の神官・永見氏の城跡で、結城秀康の母の実家である永見氏の城でした。
■知立城の場所の住所■
知立市西町西9−8
5分でわかる知立城の歴史
知立神社の神官・永見氏は、戦国時代この地方に勢力をもった豪族でもあり、知立城主でもありました。しかし岩崎城(現在の日進市)の丹羽氏と同じく、国境の豪族のであり、悩みは尾張と三河のどちらの勢力に付くかでした。
永見氏は知多半島の水野氏と関係を深める一方、岡崎の松平氏とも友好関係を保っていました。永禄三年の桶狭間合戦時、今川義元は桶狭間古戦場に行く途中、この知立城に滞在し、翌日に沓掛城(豊明市)に向かっています。このとこから、桶狭間合戦の時は今川方の城だったらしく、義元が桶狭間で敗戦後、知立城は今川勢敗走の中、織田勢によって落城しています。
桶狭間の戦いにより落城した知立城ですが、天正年間(1573~93)に刈谷城主・水野忠重によって御殿が建てられ、江戸時代の寛永年間(1624~44)には、松平主殿守が増築を行うなどして、将軍家の宿泊所や休憩所になりました。しかし元禄十二年(1699)の地震で倒壊し、それ以後は再建されませんでした。でも明治時代には明治天皇が訪れるなど、由緒ある場所として認知されていた様です。
知立城の現状
そんな知立城は現在、公園と住宅地になっています。まず公園には知立古城址と刻まれた石碑が建っています。かつての縄張図というか、城の規模の範囲はハッキリと分かっていませんが、江戸時代の東海道を取りこんだ立地から、交通の要所だった事もわかります。
江戸時代の東海道
公園の前に建っている看板。この古地図の御殿というのが知立城址で、知立神社が近くにあるのが分かりますよね。ところでこの古地図見どころポイントですが、御殿と知立神社の間にあるL字方の道。実はこれ、東海道池鯉鮒(ちりゅう:知立)宿なのです。
またなぜL字に折れ曲がっているのかというと、敵を迎え討つためでもあります。東海道は京都~江戸を結んでいた街道ですが、もし西国(関西、中国、九州など)から敵が江戸に攻め寄せた場合、各城や宿場で迎え討つために道を折り曲げて、敵に備えていたといわれています。池鯉鮒(ちりふ:現在の知立)宿にも、その名残が現在も残っています。
知立城から北に進むと、かつての東海道がL字に左に曲がっています。これは古地図に記載がある通りですね。江戸時代と風景は変わっていますが、東海道という街道の名残は今でも色濃く残っている事が分かります。
知立城の見るべきポイント
知立城は土塁や堀といった城の遺構は残っていませんが、見るべきポイントはあるんです。それが高低差です。知立城の北側に現在の国道1号線が走っていますが、国道1号線から知立城を見ると高台になっている事が分かります。逆に知立城から国道1号線側を見ると低くなっています。これはかつて、知立城の北側(現在の国道1号線が走っている場所)が、谷状になっていたという事で、北側から見ると崖の上に知立城があったということです。
これらの事から私の仮説ですが、知立城は北側を天然の地形(崖)で守られていた城だったのではないかと思います。そして東側は後の東海道が通っていたみたいに、戦国時代も何らかの街道が通っていた交通の要所だったのでしょう。
ということで私の感想ですが、知立城は天守も無い郷土史レベルの城ですが、今川義元も桶狭間合戦以前に滞在したであろう城ということで、歴史は非常に深く、また江戸時代の東海道が色濃く残る城なので、愛知県の戦国ファン、お城ファンはチェックしておくことをオススメします。
駐車場は無いものの、名鉄知立駅から徒歩圏内ですし、近くに永見氏が神官を務めた知立神社や、結城秀康の母・お万の方が生まれたといわれる総持寺(そうじじ)もありますので、セットで巡る事ができると思います。